小学校のころから体力測定をしても、取りだてていいほうではなかった。もちろん、クラブ活動もレギュラーの手前の補欠。ソフトもサッカーも。唯一、平泳ぎの水泳だけは選手になれたが、結果は、市内の大会で確か拍手で励まされたとおもう。成績もなんのとりえもなかった。ただどこにでもいる小学生。しかし、中学・高校とカンフーに目覚めるようになってから、ストレッチで恐ろしく柔軟性の高い体になり、アクション研究を通してそこそこ筋肉もついた。ちょっとだけ、運動神経がよくなり、自分でも驚いていた。ところが、体力測定をしても取りだてていいわけではなかった。
大学生のとき、どこかでひどく頭でもぶったのか?行動は奇行を極め、おもむろに愛知から新潟。沖縄本島、愛知から北海道を歩いたり、長良川をいかだで下ったり、山に川に外で激しく遊ぶようになった。こうなると、どこにでもいる子供だった私は、おいそれと人が真似できる体力仕事以上のことをするようになっていた。ところが、体力測定をしてみると、抜群になにかがいいというわけではない。どこにでもいる体力、むしろ筋肉はあまり強いほうではない。・・・でも岩を登れば、そこそこ登れる。山を登れば、人に遅れることもない。なぜだろう・・・。
僕は、それについてこう考えている。いままでの経験から、そう考えるのいたったのだが・・・。
それについて語るには、まず僕が考える人間の能力について説明しなければならない。僕は、それについてこう考えている。
人間、個人の能力はとても高い。けれど、能力をフルに出し切るのは、危険だ。我慢の限界を超えればもちろん命取りだからだ。そこで人間の脳みそは能力の限界に近づくまえに、「もう、やめよう」という信号を出す。私の根拠のない感覚では、最初の「もう、やめよう」という信号は、その人の能力の30%の時点で出されると思っている。しかし、多くのひとはそこでやめることはなく、「もうちょっと続けてみようかと思う」。もちろん、続ければ、その後も、二回目、三回目の「もう、やめよう」とう信号が脳から出される。そして多くの人は、息切れしながら、能力の50%くらいで、「もう、だめだぁ~」と行動を中止する。そんな感じがする。
なぜ、体力のない僕が、人ができない領域に足を踏み入れるか?なにか特殊な力があったり、体力測定では測定できない、瞬発力や持久力があるのだろうか。僕はノーだとおもう。体力測定の数値は正しい。では、なぜ、僕は・・・。
こう考えている。ただ単に人が50%でやめる、つまり限界に達する遙以前に手を引いてしまうところを、僕は能力が低い分、能力の70%くらいまではつづけることができる精神構造をもってしまったため、基礎体力が低くても、成果はそこそこのものを得られるのだと。でも、いままでは大丈夫だ。日常生活の中で、限界に近づいても、限界の30%手前でやめれば、命とりになることはない。
さて、今度のエベレスト。僕は自分で心配している。僕は人よりも能力の限界いつも平気で近づいてしまう。人は余力を残して「やめる」のかもしれない。しかし、僕の場合同じやめるでも、そのときには「余力」の残りが少ない。つまり、ヒマラヤの極限の状態でも「ここで諦めたら一生後悔する!」などと歯を食いしばり、気づいたときには、つまり「だめだ」と思ったときには、もう余力がすくない。ウルトラマンのように僕にカラータイマーがついていたなら、極端なことを言えば、ぼくには点滅期間がない。となると、つまり限界に近づき、限界の一線を人よりも早く越えてしまい命を危険にさらしてしまう可能性がたかいのだ。・・・まずい・・・。
この限界の境界線、僕は人よりも高いところに設定されている。なんとかヒマラヤ中は意識して、限界線を低いところに設定するようにして、脳からの「もうやめようよ」といういかなる小さな信号を無視することなく、小さな声に傾け、命を危険いさらすことがないよう。気をつけよう。
2日前に、やっと名古屋からバンコク、バンコクからネパールの航空券が取れたが、せっかくとれた往復航空券が、片道航空券にならないように・・・。
写真は今日、二往復した金華山にもっていたオモリ(17キロ)と、今日、とどいた厳冬期用寝袋です。