月別アーカイブ: 2007年12月

雪は何処?

yuki_mino 今年狂ったように金華山に登るようになってから、たかだか1日1時間の山登りなのに体の調子がいい。上り始めの頃は、ここが微妙に痛い、あそこが痛いということがあったが、登り続けることによって痛みがなくなってきた。
 正直、夏の乗鞍のときは右足の甲(足の小指と薬指の付け根からクルブシに駆けて)が山に登るたびに痛かった。これでは万が一ヒマラヤに行けることになったときにはまずい・・・。その後、なるべくそこをかばわない様に、たかだか一時間の登山だと、痛い部位をイジメル(=鍛える)ようにしていた。そのうちその痛みも忘れた。
 また、山に登るときに、しんどい思いもしていたが、いまではあまり苦しいと感じない。これは仕事柄大きなメリットがある。ここで筋力を落としたら今後の仕事にマイナスになる。「汗をかかない上り方のマスター」+「体調維持」で来年も金華山しよう。

snow_gifu さて、大寒波ということで、ここ数日期待に胸膨らませ金華山を見上げてきたが、金華山には雪がまだ降っていない。イメージではここ2・3日で積雪20~30cmを期待していたが・・・。でも、写真の市内にある岐阜大学の後ろまで雪は迫ってきた。もちろん、美濃方面も雪、雪、雪。
 早く金華山にも雪が降らないものか。そしたら、誰の足跡もない道に僕の足跡を最初につけるのだ!

doki ところで、今日の発見。岐阜城直下20mくらいのところの登山道、下に目を落とすと土器のカケラが!ちょうど、その真上には岐阜城の井戸(雨水をためていた水溜り)があったところである。もしかして・・・などといろいろ想像していたら、帰り道はあっという間に家に着いた。

なぞのアドレス帳 その後

thai 先日お話した16年ぶりのムーちゃんからのメール。その後のやり取りでわかったこと。パンちゃん、ヌイちゃん、ヌングちゃんなどのトラートの友達とは彼女が高校に進学して以来会っていないということだった。彼女はいま、バンコクの税関で働いていている。うれしいことに、写真とともに彼女らにおくった着物の生地でできた小物入れをいまも持っていてくれるということだった。
 また、僕たちがであったトラートのチャン島は大いに変わったとも彼女は言っていた。
 写真は、16年前のチャン島。カンボジアとの国境沿いの島。今でこそ、カンボジアといっても「ふーん」だったけれど、当時はクメールルージュなどの活動などでとても怖い国というイメージがあった。そんなカンボジアと国境を接しているタイのチャン島。のどかな風景だった。

 そんなチャン島で前述ドイツ人のイザベルがトップレスで日光浴している隣で、タイ人の女の子とたちは、服をきたまま海水浴(タイには水着を着るという習慣が当時にはなかった。いまはどうか知らないが・・・)。僕は郷にいらずんば郷に従えということだと思うのだが・・・。

NHKの番組

 僕の映像が少しだけ出いました。イムジャ湖の話がでてきたときに、大沢たかおが「山から人が下りてきました」といったナレーションがでたときに豆粒のような4つの影があったけれど、その影の1つが僕でした・・・。

嵐の前の静けさよ

56 年賀状は、なかなか会えない人に出す!だから正月早々に会うであろう友人、学生、同僚などには送らない。一年に一度の年賀状の宛名を書きながら、自分の中にいるその方々から受けた影響だとかをその方々のお顔を思い出す。そして当時彼らに吹いたホラと現在の自分とを照合し、至らぬところを自分への戒めにしている。年賀状は年に一回の自分総決算と位置づけている。そんな賀状の宛名書きも終わり、今日から職場は完全封鎖。変わって家の掃除が待っている・・・。

34 そんな掃除のためのブート(起動)キャンプとして、体を温めるため、朝起きてから金華山に登ってきた。今日も課題は汗をかかないことだったが、はやりどんなにゆっくり登っても、まだ速度が速いのかにじむような汗をかく。
 明日から、大寒波がやってきて、天気予報では5日くらい、このあたりでは雪が降るらしい。あのクマゼミがないていた早朝真夏の金華山。雷雨が襲う夕暮れ真夏の金華山。いま思い返すと、広重の浮世絵のタッチが思い返される。その金華山が雪景色。どんな景色になるのだろう。只今、ドッキン、ドッキン、好奇心が刺激されてる。

12 ちなみに本日、17:30からNHK総合で、私たちが取材を受けたヒマラヤの番組が放送されます。1月3日にも再放送、1月23日BSハイビジョンバージョンで放映です。BSハイビジョンのほうが私たちの紹介が長いようです。といっても数分ですが・・・。

リニューアル

mae いろいろあったが、なんとかオフィスが片付いてきた。ほぼ95%か。その後の5%のつめはうまいことできないが、大方リニューアル竹島になったかと思う。テーブル兼収納のデスクをつくったこと。また、大まかにはミーティングスペースとワークスペースとをはっきりと分けたこと。これがおよそのリニューアル概略だ。本当は、いままで雑然とした荷物等を倉庫に持っていったので、倉庫の整理も必要なのだが、もう疲れた・・・。年越しになるが致し方ない。
 ところで、この学校も開学当初は、24時間356日出入りできて、正月休みこそ、掃除や普段できない仕事のためのオフィスで快適だったが、いまでは明日から3日まで全館閉鎖とまことにお役所的になって悲しいものだ。

ato

なぞのアドレス帳

 一週間くらい前だろうか、いつものようにいたずらメールが届いた中で、タイトルが「I think you are my old friend」というものが来た。最近は、さもありなん、という感じのタイトルのいたずらメールが多いので、そのメールもそのうちの一つだろうとおもって削除しようとした。しかし、文章が短く、卑猥なキーワードや値段や写真がなかったので、削除の前にとりあえず読んでみた。すると、たしかに「私のかつての友達」だった。

 このブログの中で16年前に初めての海外旅行でタイに行ったといったが、そのときにであった女の子からだった(いまではもうたぶん30前半の女性だと思うが)。タイで最も楽しい思い出が残るカンボジア国境の「チャン島」で出合った4人組の中学生・高校生だ。
 おっと、誤解してもらってはこまるから説明を。
 一人旅していた僕は、港で船にのり島へ向かった(言葉が通じぬその国で、いま思うと良くやったと思うが:もっともポム・ジャッ・パイ・○○。タオライ?ティーナイ?なんていっていたら大体の用事が足せた)。彼女達とは、その船でのり合わせ、同じビーチで降りた。他にそのビーチで船を下りたのは、トップレスで海水浴するドイツ人女性(20代前半)とその2人の男の友達、日本語を少しだけしゃべるタイの有名大学の女子大生とその弟と叔父、そして私。それだけ。つくやいなや、タイ人・ドイツ人・日本人(僕)は打ち解け、2泊くらい行動をともにして、いろいろ話したり、ビーチで泳いだりした。

 もちろん、そのときとった写真は現像して、日本土産をつけて、タイ人・ドイツ人に帰国後送った。それに対して返事をくれた人もいた。けれど、その後2・3回の手紙のやり取りはあったけれど、いつのまにかフェードアウト。記憶の片隅にホコリをかぶった思い出になった。

 けれど、4人の女子中高生の中で、「パンちゃん」という女の子がいた。とてもかわいい子だった。僕のすりむいたヒザ頭に、夕暮れのビーチでとなりにきて、「バンドエイド」を貼ってくれた。また「ムーちゃん」がいた。「ムー」はタイ語で「ぶた」を示すらしいが(ちなみに、パンはリンゴを示すらしい)、皆からムーといわれ、自分でも「私はムーよっ」て言ってた彼女。この2人は名前と顔を覚えていたが、他の2人の女の子は顔はハッキリ覚えているが、名前を忘れてしまっていた。

 ムーちゃんから16年ぶりの「声」を聞き、その後「どうして僕のメールアドレスわかったの?」と聞いたりして、メールがきた状況が大体わかったのだけれど、その後メールするにも、ムーちゃんとパンちゃんのことしかたずねないのは不自然だ。だから、他の2人の名前を探そうと、先ほど、「16年前彼女たちに送った手紙の控え(だいたい人に送った手紙の控えはとっておく性格なので・・・)」を探した。しかし、1年前の掃除でどこかにしまいこんで、ファイルが出てこない。じゃぁ、彼女達から帰ってきた返事を探そうとした(中学のころの年賀状から大体人がくれた葉書・手紙は保管している)。ところが、これも掃除でどこにしまいこんだか解らなくなってしまった。

 万策つきるところだが、そうだ、あそこにあったかも?と「書き溜めている文章を入れているミカン箱」そこには、広告の裏に書いた「日々思ったこと」からノートまで保管している。そこを探していたら、91年のタイ旅行のノートがでてきた。そしたら、ムー・パンいがいの2人の友達の名前もでてきて、やっと心静かにムーちゃんにメールできる。

 ついでに、ノートの後ろをみると3人の日本人を含む20人近くの様々な国籍の人の名前と住所がかいてあった。その名前の脇に、どこで知り合ったどんな人なのか?ということが書いてあった。「バンコクであった学生」「チェンマイ駅であった二人(夫婦)」「ドイタノン国立公園のレンジャー」ここまではいい。しかし、「無職のタイ人青年」「美人のタイ人」「ブルネイで2年働いたことがあるコラートから来た英語を話す女性」「56歳なぞの人物」「バスの切符切りの兄さん」・・・。彼ら、彼女らの住所が書いてある。誰だったけぇ~。しかも、なぜ彼らの住所を僕は知っているのだろう?どうやって仲良しになったのだろう。24歳の僕は「不思議ちゃん」だった。

 ちなみにその思い出深き「チャン島」いまは、観光開発で大きく様変わりしたことを、ネパールに行く途中でよったバンコクで聞いた。

金華山に集う人々 その3

金華山に集う人々 その3

 ヒマラヤで不思議をいくつも体験した。2週間風呂に入らなかった。けれど、何とかご機嫌に暮らしていた。僕は汗かきだ。普通だったら汗をかいてしかたない山登り。けれど、なぜかヒマラヤでは毎日汗をかいた!という記憶がない。汗をかいてシャツを替えたのは一度だけ。なぜだろう。そこで帰国した今、汗をかかずに山に登ることを研究しようと思う(まぁ簡単なこと・・・だと思う。酸欠で早く進めないのでゆっくり登っていたからだろう。だから、日本でゆっくり山登りすればいい?)。もちろん、実験地は金華山。
 
 昼飯を食って実験を始めた。
 家から金華山に向かうには、近所の日中友好庭園を横切る必要がある。この公園の入り口の近くには公衆トイレがあるが、今日、そのトイレからサンタクロースが出てきた。スカートをはいた女性のサンタ。ちょっと目をしばたいたが、まぁ、一種のコスプレだろうと理解しようとした。ときどき日中友好庭園では、マニアな写真撮影会が行われているので、それではないかと。しかし、そのスカートを履いた女性サンタの両サイドを、新たにトイレから出てきた2人の女性が取り巻いた。まったく普通のジーパン姿の女性である。奇妙なのが、その2人の女性の背には「登山用の大きなリック」。良く見るとそのサンタの背中にもリック。まさか、子供たちへのプレゼントではあるまい。まさか、金華山に登るのか?良く分らないこの3人。近づいたときに背中を向けていたサンタの正体を確認すべく、チラ見した。あのサンタ、「秋葉系」。彼女たちいったい何者だろう?あの格好で山に登るのか?それとも、人がすくない公園で初めての恥じらいコスプレ体験か?

 毎回汗かきながら体育会系の金華山をしている。体に負荷をかけて、脂肪を燃やし、筋肉を鍛え・・・。いつもなら家からでてドア・ツー・ドアで45分。しかし、実験初日の今日は、55分。ゆっくり登って、ゆっくり下ってきた。
 下りで爽やかな人たちとすれ違った。小学生4・5年生と思われる3人組だ。休日の今日、友達と集まったとき「今日なにして遊ぶ?」「じゃぁさぁ、金華山行こうぜぇ~!」「一番苦しい馬の背にいこまい!」「おっー!」そんな会話で金華山に来たのだろう。僕が子供の頃よく、「子供は風の子」なんてことをいっていたけれど、いつの間にか子供たちは、そとで遊ばなくなった(確かに世の中物騒だし、テレビゲームなんかもあるし)。昔は風の子だった、この禿親父も、今では寒がりで、「目的・目標がなければ山なんかに登らず」できることなら家でぬくぬくしていたい気分だ。でも、彼ら3人、純粋な気持ちで山に来ている。口うるさい大人たち言われるわけでもなく、自分たちの意思で・・・。彼ら3人のような子供を見て、ちょっぴりノスタルジックになり、ほのぼのした気分になった。「がんばれ未来のアルピニスト」、と心で声をかけてみた。

大大大 掃除

office2 旅にでるときに部屋を掃除していく者がいる一方で、部屋の掃除を嫌う者もいる。大学の同級生で山岳部の○○君はこんなことを言っていた。「僕は山に出かけるときは、だって、そのまま戻ってこなくなるような気がするから、絶対掃除していかないっ!!!」。むしろ彼は何を出しっぱなしで行ったほうが心休まるといっていた。その反対に、きれいに掃除をして旅に出かけるものもいる。

 さて、今回のヒマラヤ。戻ってきたらきっと授業の準備などをしている時間はないから、戻ってきた後の授業の資料も2週間分くらいはつくってからでかけよう。もしかして、片道切符になるかもしれないから、部屋だってきれいにしておかなくっちゃ。出発3日前までそう思っていた。

 ところが現実はどうか。部屋の掃除の「そ」の字もなく、いつも通りの部屋の状態にも程遠く、結局、出発前までしなければいけない仕事も一部できないまま、逃げるように日本を飛び立ってしまった。オフィスは台風と雪崩れが一緒にきたような状態だった。

 ヒマラヤからもどってそろそろ一月。これまでは、毎日をやり過ごすことに時間をとられ、とても部屋を元の状態に戻すことができなかった。しかし、先週くらいから部屋の掃除をしなければ、クリエイティブな発想ができないような状態になってきたため、部屋の掃除と整理を最優先にしている。木曜日からはじめ、金曜日、土曜日、日曜日、4日たってやっとなんとか終わりが見えてきた。

 ものがなかなか捨てられない僕は、もう一生見ることもないだろう資料を後生大事に保存している。・・・もっとも、そんな資料を持っているのを発見するのは大掃除のときで、日ごろはそんな資料を持っていることさえ忘れてしまっているのだが・・・。だけど今回は、とにかくタケジマをリニューアル。年齢相応の落ち着きを勝ち取ろう、そう思って「シンプルライフ」にすべく、全ての書類に目を通し、おもいきって「バンバン」書類を破棄した。一時は、足の踏み場もない(踏み場がなくて、いろんなものを踏んでしまったが・・・)オフィスもやっと今日の夕方には終わりが見えてきた。

 明日からはオフィスにジャストサイズの収納・家具を作るための、大好きな日曜大工に取り掛かる。在校生・卒業生の皆さん、「あれっ」と見まがうオフィスになります!?部屋を間違えたなんて思わないでくださいね。

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回想ヒマラヤ11 非日常5

 実はこの記事二回目の投稿になる。おとついの夜、寝る前に入力し投稿したと思ったのに、投稿ボタンの押し間違いで、記事が、インターネット回線からこれげ落ちた。あのときかいた僕の記事は、「宇宙船からこぼれ落ち、冷たい宇宙に永久に浮遊するひとかけらのゴミ」みたいになった。
 
 そのため僕は落ち込み、昨日は筆を取れなかった・・・。しかし、回想ヒマラヤを終えなければ、ヒマラヤ「あり地獄」から抜け出し、つぎのステップを踏み出せないから、今日は気を取り直して、おとついの記憶を思い出して進んで行こうとおもう。

 さて、今回びっくりしたことの2つめ。「高所で何が起こったのか?第二段」。結論、高所では顔が変わるということ。たとえば日本で寝起きのとき、疲れが取れていない日などは「あ~顔がはれぼったい」なんていうときがある。飲みすぎたときの朝・・・。それと同じような変わり方で、高所では顔がはれて、われながら「この人だれ?」と本気で思うほど顔が変わった。じゃぁどれくらい顔が変わるのかについて写真を撮っているので、その掲載も考えたが、どこかの学習塾のCMのように、顔に落書きされたら恥ずかしいので(たとえば、髪の毛を生やしてみるだとか・・・)写真の掲載は我慢した(一生懸命モザイクとか入れていたんだけど・・・)。知りたい方はメールください。

 以前、高山病対策に水を沢山飲むということをかいたが、どうやら現代医学の力をもってしても高山病がどのようなメカニズムでおきるのかよく分っていないらしい。薬で「ダイアモックス」というのもあるが、その薬、なにも高山病のための(予防)薬ではなく、単なる「利尿剤」を利用しているだけ。とにかく高山病のメカニズムは分らないらしい。でも、なんとなく、体液の循環に異常がおきるために「高山病」が起きるらしい、ということだけはなんとなく分っていて「やれ水を飲んで、小便を出せ」となる。

 だから高所にいくと体液の循環の異常で顔がはれぼったくなる(と思い込んでいる)。一時は、自分でも泣きたくなった。もしかして、日本に帰ってもこのままかなぁ~。これじゃぁときに「坊さん」だとか「●●●」かと間違えられるが、その迫力がなくなり、絶対別人。

 でも、不思議なことがあった。顔に異変があったのは、51歳のKOのF先生(僕よりもひどいこと顔が変わっていた)と41歳の僕の二人。一緒にいったKOのフレッシュボーイ’Sたちにはその変化はなかった。この高山病症状、歳をとればとるほど激しくなるのかと疑問は残る。

回想ヒマラヤ10 非日常4

 この半年で8キロ近くのダイエットをした。そのために、日々有酸素運動に気をつけ、食事も腹4分くらいで抑えて、禁欲・禁欲の生活をつづけ、減量してきた。一般的にいって、体脂肪が燃えるのは、心拍数が120以上のときらしい。だから体脂肪を燃やすため負荷の低い自転車(自転車通勤)をやめて、自転車以上に負荷がかかるランニングを選択した。それで、数日に一回、ランニングをすることを心がけた。
 体脂肪が燃えるための条件は脈拍数以外にもう一つある。運動の継続時間だ。心拍数120以上を20分以上キープしたとき、体脂肪が燃えるという。そのため、さきほどのランニングも一キロを5分で走る僕は、4キロ以上は走らないことには体脂肪は燃えない。そこで、毎回苦しみながら10キロ~12キロを走り続けた。こうして苦労して8キロの減量を実現した。

 さて、話はヒマラヤ。僕は健康診断をするたびに、「じょ脈」、つまり心拍数が低いと指摘される。大体、一分間に50鼓動を下回る程度だ。さて今回のトレッキング、空気は平地の半分以下、だから、酸素をいままで以上にキープするためは、①呼吸の数を増やす②脈拍を増やし血液の流れを早める。などの工夫をしないと死んでしまう。

 幸いなことに、体はよくできていた。苦しくなったら自然と深呼吸する回数が増える。またこれが驚きなのだが、高所では自動的に脈拍があがった。4000mを超えたところでは、ときどき心拍数をはかっていた。すると、脈拍は80~110くらいだった。空気が薄くなると自然と心拍数があがるのだ。
 ところで、脈拍数があがるということは心臓という筋肉の塊の運動量が増えるということ。しかも、高所にずーっといるから心臓という筋肉は常に運動している。心臓が運動をするためにはエネルギーが要る。エネルギーが要るために体脂肪が燃える。そのため沢山食べてないと体力を維持できない。だから、ヒマラヤでは食事の量を腹8部くらいにするように意識していた。
 その甲斐あって、ヒマラヤから帰っても他のメンバーは3週間で8キロやせたとか、3・4キロやせただとか行っていたけれど、僕の場合は体重は変わらなかった。

 
 ところで、高所ではどんなことが起こるのかと興味深深の方もいるかと思う。そこで、僕がびっくりした高所で起こったこと2つを紹介しよう。今日はまずその一つ目。

 一つは、寝袋で寝ることが命がけだということだ。たとえば、家のベッドで布団いもぐりこむとき、一般的に人は布団を持ち上げ、掛け布団と敷布団の間にスライインする。これはあたりまえ。別になんんともない。ところが、寝袋だとそうはいかない。
 コタツで不覚にも寝てしまった経験はだれにでもあるだろう。あとで、試してみていただきたいが、コタツで寝ようと思ったら、布団を上げるようにはできない。天板が固定されているから、決められた床と天板の間の距離にスライドインしなければならない。自分に都合がいいように布団を上げることができないのだ。
 これが曲者(くせもの)である。人はあまり気づいていないと思うが、コタツで寝ると天板と床との間にスライドインするには、意外と腹筋を使う。でも、こんなことは平地ではなんでもない。
 しかし、これが高所の寝袋となると大変だ。寝袋はベッドの布団と違い、スライドインする高さを自分で調節できない。つまり、コタツと同じだ。コタツでは腹筋を使う。それと同じように寝袋で寝るには腹筋を沢山つかうのだ。これが問題。腹筋を使うために、筋肉をつかうい、そのため安静時以上の酸素が必要で、安静時よりも多くの酸素が要求される。となると、どうなるかといえば、山を登っているような負荷が体にかかる。つまり、高山病対策のため頻繁によるトイレに行く。(寝袋からでて、寝袋にもぐりこむ)。そのため、トイレからもどり寝袋に入るときはいつでも、100m走をしたようにゼイゼイするのだ。さらに、さらに寝袋に寝ながら寝返りを打つと、実はそれだけでゼイゼイのだ。

 おーーーっと。ということは低酸素の高所にいる限り、運動をしなくても体脂肪は燃える。

 さて、やせたくなったら、またエベレスト周辺にいかなくちゃ。おっと最近、また体重が気になり始めた。再度ヒマラヤに行かなくちゃ!!!