月別アーカイブ: 2008年1月

ホワイトアウトナビゲーション

読図 水曜日の夜から乗鞍高原に行ってきた。昨年の夏KO大学と一週間の合宿をしたところだ。理由は研修に参加するためである。水曜日の夜は私が講師をつとめ、木曜日は、私は受講生になった。研修の内容は「ホワイトアウトナビゲーション」。吹雪に会ったときでもちゃん帰れるための訓練である。私はGPSを山岳ガイドの方々に教え、今日の講師は”方位磁石”の使い方を教える。

スキー場 昨日のGPS講習は、夏のJICA研修・県内のGPS普及・日々の授業の取り組みを話してきたので、代わりばえはないが、今日のコンパスをつかったナビゲーションは、学ぶことが多かった。独学で身につけた方位磁石の使い方だが、今日の講習はそれを補強するなかなか良い話も聞けた。ところが、今日の講習、能書きだけの講習ではない。実技がある。その実技をするため乗鞍高原スキー場のリフトを乗り継いで標高2000mまで上がり、その後、スキーまたはスノーシューズを履いて標高2600mまで地図と方位磁石だけを頼りにあがるというものである。下のスキー場はこうして晴れていた。余談だが、驚いたことにスキー人口が激減して、非常に快適そうであった。これだったら、スキーをしてもいいかなぁ、と思う発見があった。
 

ホワイトアウト しかし、研修の中身はホワイトアウトナビゲーションである。吹雪であたり一面が見えないときでも、ちゃんと行きたいところに行く訓練である。こんな晴れているところでは研修にならない。そこで、スキー場から目的地に向かい歩き始めた。氷点下12度くらいであったが、登りはからだが熱くなる。汗をかいては風邪を引く。だから、登山下着+フリースだけで2400mくらいまで行った。
 ここまでは良かった。樹林帯の中、如何にに寒く風が吹いても、経験値内である。不安はない。金華山登山のおかげで別に斜面を登ってもなんともない。
 ところが2400mを超えて、森林限界を越える頃から、猛吹雪の中に突入することになる。風は強い!!!!雪も強い!!!!前を向いていられない。私の前を山スキーで歩いていた人は、立ち止まって地図を見ていたら、風で吹き飛ばされて倒れた。
 私もたまらなかった。顔面に当たる風が、経験値をオーバーフローして”痛い”を通り越して、凍傷になるのではないかと思うくらい。指先も冷たい。まるで凍っているようである。リュックに入れたペットボトルもシャーベット上のお茶に変化。顔面保護のためにタオルを口と鼻に当たるようにマスクをしたが、吐息で湿ったタオルが凍り、まるで氷のマスクをしている感覚であった。
 2600m地点は氷点下ー18度。風速はわからないが、突風で人が倒れそうなことがあるくらい。もちろん、文字どうりホワイトアウト。回りがみえない。絶好(?)の研修日和。ヒマラヤではー20度のキャンプを経験しているが、その比ではなかった。風のため体感温度は∞。

 イヤー楽しい2日間だった。来週はなだれ講習に出かけます。なだれで埋もれたひとをどうやって発見・救出するかという研修。

金華山の土器 続編5

 朝、岐阜市教育委員会の方と“ロープウェイ”乗り場で待ち合わせをして”土器片と瓦片“を拾ったところを案内してきた。

 どうやら、金華山山頂付近での瓦の発見はほとんどないらしい!理由は大きく分けて2つといったところか。一つは、当時の建物で瓦が使われているようなものは少なく“木”で屋根を葺いていたと思われ、瓦が葺かれる建物はごく少なく、出土が少ない。もう一つは、金華山山頂でこれまで発掘調査が行われたことはないために、出土もない。
 山頂での瓦の発見は、かつて一度だけ山頂で盗掘されたときがあり、そのときに盗掘現場に置き去りにされた土砂から見つかったときくらいらしく、今回の瓦の発見は珍しいとのこと。そして、歴史ロマンに酔ってしまうのは、瓦の色が白かったので「当時の瓦は白かったのか」と思いたずねてみたら、実はあの瓦、焼けたため変色したとのこと。つまり、落城した際の遺品という訳。戦国時代の瓦で岐阜城が燃えたなんていえば、斉藤VS信長の稲葉山城落城、関が原の戦い後の岐阜城落城の二回。そのどちらかだろうから、年月日を特定できる!なんとわくわくすることだ。

 しかも、しかも瓦の発見がレアだという金華山山頂で怪しい瓦片3片をつづけて見つけてしまった!!!一つは現代の瓦と思われる大きな破片、一つは黒色で戦国時代といわれた瓦よりも薄いどちらかといえば現代の瓦のような均一な瓦。そしてもう一つは黒色で拾った戦国時代の瓦のような丸みと厚みをもった瓦。いやー、いずれにしてもすぐに目に付いた。
 確か明治時代に再建された岐阜城が昭和に入ってから燃えているから、そのときの瓦片か?・・・とおもいインターネットで今調べてみたら、当時再建された岐阜城は“トタン”葺だそうだ・・・。となると・・・。もしかしたら重要な発見なのか?

 さらに驚いたことは、発見現場からロープウェイに至る金華山の銀座通り。一日100人が通行し(ロープウェイ客も含み)、365日、40年間で仮に考えてみると延べ150万人の人が通っているその銀座通りの道脇で、またまた焼け落ちたと思われる色をした瓦片を発見!

 ちなみに、ときどき拾ったものを持ってくる人がいるらしいが、今回の私のように拾った場所を特定することができる資料(私は拾ったときにデジカメをもっていたので、場所を再現できる情報を記録することに努めた)を持ってくることはほとんどないらしい。今回の私の発見が、何かのお役に立てると最高にうれしいのだが。

 そんな私のときめきを考古学が好きな(というか専門にしている)知人に自慢げにメールを打ったら、彼からうらやましいという返答とともに、彼は愛知県の豊田での発掘を手伝っており、そこでもわりと「すり鉢片」がでてくると情報を貰った。現代ですり鉢を使うのは、とろろ芋、ゴマすりくらいで毎日のものでもない。けれど、すり鉢がなぜそんなに当時(豊田も戦国時代の遺跡らしい)でてくるのだろう。魚をすり身にすることが多かったのか(骨ごとだったりして)?雑穀なんかを粉にして水団や麺にしていたのか(石臼の代わりに)?消化のわるい硬い実のものを良く食べていたのか?どうしてすり鉢がそんなに多く出土するのだろう。現代の考えでいけば、茶碗と箸という食事風景だが、実は当時は食糧事情などからすり鉢に食材をいれ自分ですりつぶしながらものを食べていたとか・・・。もしくは、椿の油を搾り出すためにすり鉢で実をつぶしていたとか(この場合工業的だから一箇所からどっとでるのだろうけれど)・・・。うーん、なんとも興味は尽きない!!!

 戦国時代の人々よ楽しいひと時をありがとう。

 ちなみに、手紙は受け取ってもらえました。

金華山の土器 続編4

あした教育委員会の方と会う。ちょっとこんな手紙を保管してもらえないか聞いてみようと思う。
***********

このすり鉢片と接合するすり鉢片を拾った方へ

 手紙の宛名のあなたは一体、西暦何年にこの手紙を読まれることでしょうか。私は西暦2007年12月31日金華山登山中、このすり鉢片を見つけました。そのときの喜び様は過去のインターネットのhttp://blog.livedoor.jp/takejima/(当時)に埋もれていることでしょう。

 2008年1月半ばに、こんなニュースがありました。小学校の何周年記念行事で風船に手紙をつけて空に放った小学一年生の手紙が、海の底からカレイに引っ付いて見つかり、カレイを収穫した漁師と当時小学生だった、その手紙を書いた現在大学生の女性とが対面したというものです。私は時代を超えて繋がったこの話に、なにかときめき、今こうしてこの手紙を書いています。おそらく私が存命中にこの手紙が読まれることはないでしょう。けれど、時代を超えて、あなたと私の気持ちが共鳴できればと思います。

 さて、私が生まれ育った家の近くには貝塚がありました(愛知県西尾市八王子貝塚)。小学生の高学年で縄文時代に興味を持ち、今となっては問題行為なのですが、友達と自転車で八王子貝塚に乗り付け、せっせと貝塚をほじって、縄文のカケラを探したものでした。友人の中には“ヤジリ”を発見したものもいました。ですが、私達の収穫でいまでも覚えているのは、完品のやじり一点、数点のヤジリの一部、あとは土器でした。そんなことで、今から思えば、子供の頃、興味をもって貝や土や石の中から土器片を見つける訓練をしていたおかげでしょうか(中学生になって西尾市の教育委員会が八王子貝塚を発掘していることを知り、社会の先生に口ぞえしてもらいボランティアで発掘を手伝った)、今回、何気なく目をやった地面からすり鉢片が、あたかも、そこだけ目立つように色がついて見えるかのように見え、すぐにわかりました。すり鉢が使われていた時代はわかりませんが、ちょうどその上に金名水の井戸もあることですから、きっと岐阜城が加納城に移築される前、金華山山頂で着物姿の人々が往来していた時代のすり鉢ではないだろうかと思いました。そして、今回のすり鉢に触れたのは、すり鉢にとっては400年ぶりの人です。それが、登山靴をはきトレッキングパンツと登山シャツを着た私なんだと思ったら、なんだか楽しくなってきました。

 私は、2007年10月下旬から11月下旬、仕事でヒマラヤに行き、地球温暖化による氷河湖の調査に行ってまいりました。この仕事のため、体を整える目的で、2007年夏は、朝仕事に出かける前に家(湊町)と金華山を往復し、山登りに体を慣らす訓練をしていました。その後は、筋力をつけるため、また学校が始まり朝早く出かけることが難しくなため(私は美濃市で教員をしています)、仕事から帰った夜、丸太を背負い金華山を無灯火で登り、ヒマラヤのためのトレーニングをしていました。2008年の春にも私が参加した隊(慶応大学イムジャ湖調査:文部科学省 学術フロンティア デジタルアジアプロジェクト)が再度ヒマラヤ入りするというので、それに備え、職場の了解がとれれば参加できるよう冬休みも毎日金華山に登っていました。今回のすり鉢はそんなある日の発見です。

 私は、比較的日本の歴史に興味があります。また織田信長に大変興味をもっています。ですから、今回のすり鉢も記念に自分が保管することも考えました。しかし、そのような記念品もそれは私にとっての記念品であって、私の子孫がそれを大事に扱う保障もありません。それではせっかく400年のタスキを受け継いだ私が、駅伝を途中リタイアするようで、とても残念です。せっかく400年ぶりのタスキを受け取ったのです、私はそのタスキを確実に次の世代に、何百年でもかまいません、手渡し、地球と歴史を共有してきた日本人としての責務を果たしたいのです。そこで、自分で保管せず公のところに届けることを選びました。その甲斐があり、こうしてあなたにタスキを渡せてとても安心しました。(子供の頃貝塚でひろった土器片は結局、こどものころの私のおもちゃ箱にある時期まではありましたが、そのご散逸し、私は歴史遺産をなくしてしまい、後悔の念にさいなまれています。今回はそんな思いはしたくないと思います)

 改めましてこんにちは。

 あなたも私と同じように自分で保管することを選択せず、公の機関に届けられたのですね。いつになることかわかりませんが、善意の人々が手にした歴史遺産をこうして時代時代に拾っては届け、やがて一つのすり鉢が完成し、全貌を明らかにする日がくるのを私は気長に待つことにいたします。

 さて、あなたの時代、この岐阜はどんなふうに変わっているのでしょうか。信長がいまの時代を想像できないように、私もあなたの時代を想像できません。でも、考えるだけでも楽しくなります。どうぞこれからも元気で楽しい毎日をお過ごしください。

新 金華山の土器 

 今朝も朝から職場に出かけ日が暮れるまで外で測量。教育というのはなかなか難しい、十人十色の対応を日々追及しながら実践しないといけない。ムムムム・・・。

 そろそろ水泳をしたいのだけれど、こんな毎日なので空いている時間といえば、夜しかない。しかたない。今日も夜登山だっ!テーマは新コース開拓。
 金華山を越えて家とは反対側に下り、先日はドライブコースを走ったが、夜中にそんなとこを走っていたら車に轢かれるので、今日は金華山をぐるりと回る大通りを走ることにする。距離は未知数。往復2時間かかるかもしれないことを覚悟して出る。

 しかし、いつも馬の背登山道を夜下りていると、どうしても想像してしまうことがある。いまから400年前に自分が生まれ、もしも斉藤の侍として岐阜城で織田方の軍勢と激突し、負け、岐阜城を落ちていくときの恐怖。それを想像してしまう。もちろん、落ちるのは夜になるだろう。そんな暗闇の中、人知れず山を下りていたら、甲冑を身につけ、刀を抜いた織田の侍と鉢合わせしたら、俺ならどうするか・・・。挑むか、土下座して見逃しえもらうか、逃げるか?そんなことをいつも思う。(戦争映画を見ていてもよく、自分ならどうするだろう?と考えてしまう)。

 さて、そんなことを考えながら今日も馬の背を登った。そして、下り。家の反対側に下りる道。初めての夜道・・・。

 大発見!!!岩戸公園に下りるこの道は、やたらと背中が寒かった。気味が悪かった。なぜだろう。下り終わってから大通りをジョギングしてかえっているとき考えて、思いあたることがあった。理由は馬の背は山の尾根道だが岩戸公園へ抜ける登山道は谷途中から谷道だということだ。馬の背は登山中、右も左も空が見える。しかし、岩戸公園への下り道。途中から谷になり、大きな樹が茂り、右や左は林。その林に何が隠れているのかわからない・・・。
 なるほど、もし僕が岐阜城の主だとしたら、敵が夜に侵入しにくいように岐阜城への登城道は谷沿いにつくり、伏兵を置くようにするかなぁ・・・。そんなことを更に妄想した。

 話し変わって、先日土器を2つ拾ったといったが、先週の岩戸公園への登山道でも、実はもう1つ土器片を拾っていた。しかし、おそらく現代の植木鉢のカケラだと思う。不法投棄された産業廃棄物の残骸のような・・・。拾ったときは、そのまま持ち帰ろうと思ったのだが、先週は未知のドライブコースを走るので、見つけた土器片にあまり価値を見出さなかった結果、道脇に捨ててきた。しかし、火曜日に岐阜市の教育委員会と金華山で待ち合わせをする。だから、捨てた土器を探してみた。すぐ見つかった。さて、この焼き物片、いったいなんだろう。

 ちなみに、家から山頂(9;29-10.57)、山頂から岩戸公園(9:57-10:10)岩戸公園から徹明町・柳ガ瀬経由家(10:10-10:50)。なんだ、もっとかかるかと思ったが、岩戸公園と家は8キロくらいしかないのかぁ・・・。もっといいトレーニングコースを見つけなければ。

金華山の土器 続編3

 今日、職場に電話がかかってきた。電話は岐阜市教育委員会からだった。先日あづけた土器片・瓦片についてだった。
 なんでも教育委員会は瓦を発見した場所に行ったらしい。しかし、分らなかったと・・・。それで私に場所の確認の電話があったわけだ。

 火曜日の朝、私が現地を案内することにした(というか積極的にさせてくださいといったのだが・・・)。

 なぜ、瓦が・・・と思って、聞いてみたら、土器よりも瓦の場所は大事で・・・というようなことだった。確かに、稲葉山城落城、岐阜城移設時の瓦なら、それは天守閣の位置と密接なつながりがある。当時考えられないところから瓦が出てこれば、これまでの天守閣等の位置の定説が塗り換わることだってある。そいうことかぁ~。だから瓦を拾った場所が知りたいということか。

 確かに、土器片よりも瓦片のほうが興味をそそるわけなんだなぁ。さて、どうなるか。岐阜城の歴史を塗り替える一石を投じるこいとになるのか?!今後の展開が楽しみだ。

金華山の土器 続編2

0c11f587.jpg 正月に拾った2つの土器片。明らかにすり鉢のものと見られるのもは、電話鑑定では「安土桃山時代」のものとのこと。もう1つのは、昭和に入ってから土管として埋められていたもののカケラだろうとおもって聞くこともなかった。

 さて、今日、野暮用があって午前仕事を休み、野暮用を済ます前に、近所の「信長居城発掘調査所(岐阜市教育委員会)」に行ってきた。そして鑑定結果がでた。

 すり鉢のものは、土器片が小さすぎて時代の特徴を表す部分が不明なため、年代は分らず。しかし、古いものだろうとのこと。

 一方、土管片と私が考えたのは、発掘調査をしていた人(おそらく学芸員)は、これを見るなり「あっ、これは戦国時代の瓦に間違いないですね」と。学芸員の人は、すり鉢よりもこちらに価値を見出していたようだった。

 この調査所は9:00から開所しているが、私は8時半くらいにそこをたずねた。開所前にもかかわらず、対応してくださり、しかもご丁寧に絵などをかいて説明してくれた。そして一通り説明を聞き終わった後、学芸員(?)の方は「じゃぁ、さよなら」という感じだった。つまり、私はそう鑑定しましたのでどうぞお持ち帰りくださいと・・・。
 これにはびっくりした。価値があるかないかはともかく、歴史遺産。こんな、私のようなオッサンが持っていてはもったいない。しかも、場所は金華山(国有林)。土地は国のものだ。そこに落ちている土器を私が拾って、それが私のものになって言い訳がない。だから、土器片は調査所に預けてきた。

 しかし、学芸員の対応からすると、このような自分の趣味と興味のために、職業で発掘している人のところに聞きに来て、つまり仕事の邪魔をして、無料で鑑定してもらって、再び持ち帰る輩が多いのだろう。なんとケシカラン!貴重な歴史遺産は未来の世代のために、何であろうと散在してはイカン!私はそう思う。

春の気配?

 昨日、激しいドライブコースを走ったにもかかわらず、足がちっとも痛くない。ちょっと考えられない・・・。しかし、思い当たることがひとつある。
 5・6年前から肩こりが、特に冬場は、たまらないほど酷い。昔、床屋で肩をもまれながら「鉄板のようなコリ」といわれたこともある。昨日、肩こりをほぐすため、電気を流して筋肉を動かす、オムロンの低周波治療器を使っていた。そして思いついた。なんか良く分らないが、5日前のランニングの筋肉痛がまだ残っているので、この低周波治療器を足につけてやれ!もちろん、意思に反して足はピクピクする、まるで心臓でも足にできたんじゃないかと思うほど。割と強めの電気を流し、ピクピクではなく、ビックン・ビックンまで強度を上げてみた。そのせいだろうか、今日は筋肉痛がない!低周波治療器のおかげならば、それでいいが、昨日のトレーニングに負荷がないならそれは問題だ。

 そんなわけで、今日の昼から職場の裏の山に行ってきた。もちろん、無意味に登るわけにも行かないし、何しろ勤務時間中である。18キロくらいの杭を背中に担いで、実習の下準備に行ってきた。
演習林
 ところで、先週の土曜日に”?”と思ったことがある。土曜日の焚き火中、西のほうからそよいできた風に”春”の匂いを感じた。土から新芽が出るというか、木から葉がでようとしているというか、そんな3月頃、どこからもなく漂ってくる”あの匂い”だ。まぁ、何かの気のせいだろうと思ったが、今日、朝、職場について車のドアを開けた瞬間にも”春”の香りが、そして山を登っているときにも一瞬、”あの匂い”を感じた。

 雪が降る、降らないなどといっている今日この頃なのに、なにか春の気配が、いつもの年よりも早い春の気配がしている。
 
 ヒマラヤで鼻が壊れたのか?地球の異変を告げているのか・・・?

 ところで、職場の山には学生さんがつくった小屋がある。これからこの山の調査を2月半ばまでにやらねばならない。その期間中、一度ココに泊まってみようかと思う。
四寸

新トレーニングコース

b8bc662f.jpg 今日、学生さんが用事があるから休みをくれということだった。そのため久しぶりの日曜日だ。ネパールからの下痢や風邪・・・、そんなことがあったので、体力回復にと多少のアイスやチョコや菓子は・・・と思っていたら、ちょっと体重が増えてきた。そのため、4日くらい前には12キロ走をして体脂肪を落とす努力をし始めた。しかし、こんなに苦しいならお菓子なんか食わなければよかったと思うが・・・。

 さて、今日はそういうことで一日家にいられるので、新トレーニングメニューを開拓することにした。登山+ランニングである。

 これまでの経験から、登山は下半身の筋力をつけ、ランニングは体脂肪を燃やす、そんな役割がある気がしている。どちらも私にとっては重要。なんとか体脂肪を燃やしながら筋肉をつけられないものか。前からそれを実現してくれるメニューに組み込もうと考えていたコースがある。金華山のドライブウェイである。金華山の山をグルリと半周する舗装された山道がある。昔は走り屋たちが夜な夜な、タイヤの音を鳴らしていたらしい道路。今日は、その道に挑戦だ!初めての山道ランニング、初めてのコース。距離も負荷も不明だ。2時間あれば家に帰れるだろうと、朝飯を食べず、VAAMを飲んで家を出た。

 いつもの馬の背登山道から金華山、金華山から岩戸公園(岐阜城をはさんで家の反対側)、岩戸公園からその山道をランニング。だれも、そんな山道を走る人はおるまいと思ったが、年のころは70くらいの背の高い爺さんが背筋を伸ばして走ってきた。もしかしたらあの人が、TSさんか?そんなことを考えていたら、こんどは年のころは50くらいのオバハンランナーに出会った。また30くらいのカモシカのようにすれ違ったマッチョなランナーもいた。うーん、すき物はこの岐阜にはたくさんいるんだなぁ~。正月の雪登山といい・・・!

 結局、登山道は馬の背から岩戸公園が40分、岩戸公園からドライブウェイが30分だった。負荷はとてもあったが、時間がこれでは短い。かといって往復するほどの元気もない。なんとかもう少し負荷の多いメニューを考えなくては・・・。

新鮮な「飲み会」

bc12112a.jpg 8月・9月のこのブログの中で「異文化コミュニケーション」という記事を書いた。今日は、2008年度の「異文化コミュニケーション」のための「アイデア出し」をするため、「異文化コミュニケーション」の研修を企画している名古屋大学の先生と昼から打ち合わせをしていた。

 かねてより、そういった打ち合わせをするときは名大の先生が美濃まで足を運んでくださると言うことだった。しかも、打ち合わせが終わったら、その足で「うだつの町並み」の中に消え、いっぱい飲み屋に行こうということになっていた。しかし、リアルに考えると私は美濃にすんでいない。岐阜市に住んでいる。美濃でアルコールが入ってしまえば、どこか美濃で泊まるか、えらく時間をかけて公共交通機関で帰らねばならない。そこで、打ち合わせの3日前に先生に「不順な提案をした」。岐阜市内で会議室を借りますから、打ち合わせは岐阜市で行い、そのまま岐阜市で夜の街に消えていきませんか?それなら、帰りもお互い便利だし・・・。先生は私の不順な提案に賛同してくれた。

 というわけで、岐阜市で会議室を借り(写真の会議室:半日1300円)、そのまま夜の街にくりだした。

 酒を飲むことは飲むけれど、だいたい一人で飲んでいる。店屋で飲むのは苦手だし、大勢で飲むのは嫌いである。しかし、今日は一対一。これなら望むところ。この夏の途上国の方々を招いた私の専門分野の研修プログラム全体構成の相談を受け(私はその一部を担当しているに過ぎない)アイデアだしを行った。

 今日の収穫は飲み会である。久しぶりに「純粋」に酒をおいしく飲めた(と思う)。というのは、前も言ったが「貧しい国と富める国との格差の問題(南北問題)」を私は日ごろからライフワークとして考えている。一方、名大の先生は「アフリカの食料事情に何か貢献したい!貢献できれば研究者冥利に尽きる!!!」と情熱をもって仕事に取り組んでおられた。その情熱にすくならず共感し、「グラッ」ときた。なので私も素性を明かすべく日頃から常に考えている「自説を僭越ながら披露」したくなって、意見をぶちまけてみた。50代半ばのその先生は酔っているにもかかわらず、私の話に耳を傾けてくれ、二人大いに意気投合した。

 あーーー、この感覚だよなぁ。職場にいるといろんな話題で盛り上がることもあるが、「この分野」の話をする相手はいない。そうするとフラストレーションがたまってくる。しかし、今日の先生との飲み会はそんなフラストレーションを払拭し、「さぁ、俺も次にがんばるぞ!」とエネルギーをもらえる飲み会となり、久しぶりに楽しいお酒となった。
 ようし、この人のためにもなんとか夏の「異文化コミュニケーション」の研修をよいものにしようと改めて思った。

飛騨牛

 昨日、ランチを食べた肉屋兼レストランで、焼肉用の飛騨牛を買って来た。

 11月に開催された職場のある町の駅伝大会に、学生が参加し優勝を勝ち取った。そこで駅伝部(今年できた)顧問として、お祝いを開くための出し物探しに、いくつかの値段の飛騨牛を買って来たわけだ。

 ところで、職場には弁当を持っていくようにしている。山に行くことが多いから弁当を習慣づけたわけではない。はじめは、昼飯を食べに行くのが面倒で、昼を食べないで仕事をつづけることが割とあり、その打破のため弁当を持っていくようにした。ところが、最近は、別の理由で弁当を作っていくようにしている。作るというよりも、弁当を詰めるという感じだが・・・。理由はこうだ。

 山に行く以外は、基本的には肉体労働ではなく、デスクワークの毎日。どうやら、そとで食べる昼ごはんや晩御飯は、デスクワーカーにとっては量が多すぎる。注文したものの量は、仮に定食にしても明らかにカロリーの摂取が多すぎる。自分の食べる量は自分で制御しないと、太ってから「無意味なダイエット」で苦しむ。これは嫌だ。だから、日々コツコツと自分で食事の量を調整するよう弁当を持っていくようにしたのだ。(昨日もちょっと体重が気になり始めたので寒空の中深夜の12キロ走をしてみた)

 さて、話は飛騨牛。今日は弁当に飛騨牛の焼肉用の肉片を3切れ(30g:これで十分)持っていた。もちろん、生のまま。職場のオフィスの前で焚き火ついでに、自慢のジンギスカンの鍋で一人焼肉をしようと思ったからだ。

 ランチの時間は、同僚とランチ兼打ち合わせを行ったので、弁当を食べれなかった。このまま家に持って帰っては寂しいので、晩飯がわりに弁当を夜食べることにした。

 焚き火をたてて、肉片3切れを塩だけをかけて焼く。これはうまかった。、鍋には脂を引いていないのに、霜降りの脂が鍋ではじけて鍋の上でファイヤーも出た。

 そんな一人で焚き火+焼肉を楽しみ、お茶の湯を沸かしていたら、煙と焼肉の匂いにつられて何処からともなく学生さんが2人やってきた。匂いにつられて・・・みたいな・・・。

 ごめんよ、もう何もないんだ・・・。コーヒーでも飲んでいく?