今日も日課となった金華山に行ってきた。家から金華山山頂(馬の背)、山頂から家の反対側の岩戸公園(東坂登山道)、岩戸公園から山頂、山頂から家(馬の背)。つまり2往復、やく1時間半。これで3回目の岩戸公園のコースだが、いろいろ金華山に登っているが、このコースが一番気持ちがいいのでは?と思う。東南の斜面なので太陽がサンサンとしているし、コースには緩急がある。そんなコースの上り口が写真である。なぜか、傘が・・・。金華山では傘差し登りがはやっているのだろうか?
さて、正月に拾った土器片。今日、近所の歴史資料館にもっていった。10分歩いたところにある事務所で、「あの~、土器・・・」とたずねたら、歴史資料館は明治以降の文章を保管しているところであって、土器のことなら「文化財保護センター」にお尋ねください、とのこと。そこで、そんなに遠くはなかったので、文化財保護センターに電話を入れた。すると、たらいまわしで申し訳ないが「金華山」の管轄は岐阜市教育委員会だからそちらに行ってください、とのこと。うちに来てもらっても「土器をみて、どの時代の何の目的の・・・と説明ができるだけで、物は岐阜市教育委員会に」といわれた。「そんな私の道楽のために、仕事のお邪魔をしてしまったら申し訳ない」と言ったら、電話で鑑定してくれた。土器の色、形、土の感じ・・・。私はもしかしたら、金華山で古墳時代の遺跡がでるらしいので、そこででてくる「須恵器」というものでは?とも思っもいた。すると、その電話の先の人が言うには、古墳時代にはすり鉢のようなのもはまだ開発されていなかった、なので、おそらく安土桃山時代のものでしょう、とのこと。ついでに、岐阜城の井戸の下で見つけましたというと、おそらく食事の支度などをしているときに落としてしまったのでしょう、などという解説をしてくれた。その話の真偽はおいておいて、それを聞いたとき、そのすり鉢を落とした女中さんの所作と、城の日常生活の一幕を、400年後の僕が時代を超えて感じたような気持ちになった。
僕は、てっきり斉藤VS織田の城攻めの過程で無造作に割られた、もしくは、関が原の戦い後、廃城の際のゴミとばかり思っていて、なんの生々しい感覚も持っていなかったが、「食事の支度の途中で落として割れた」なんていう話を聞けば、岐阜城の平和な生活の1コマが脳裏に浮かび、なんとも不思議な感覚がした。
しかし、残念だが、岐阜市教育委員会にはいついけるだろうか。土日は休みだという・・。