金華山の土器 続編5

 朝、岐阜市教育委員会の方と“ロープウェイ”乗り場で待ち合わせをして”土器片と瓦片“を拾ったところを案内してきた。

 どうやら、金華山山頂付近での瓦の発見はほとんどないらしい!理由は大きく分けて2つといったところか。一つは、当時の建物で瓦が使われているようなものは少なく“木”で屋根を葺いていたと思われ、瓦が葺かれる建物はごく少なく、出土が少ない。もう一つは、金華山山頂でこれまで発掘調査が行われたことはないために、出土もない。
 山頂での瓦の発見は、かつて一度だけ山頂で盗掘されたときがあり、そのときに盗掘現場に置き去りにされた土砂から見つかったときくらいらしく、今回の瓦の発見は珍しいとのこと。そして、歴史ロマンに酔ってしまうのは、瓦の色が白かったので「当時の瓦は白かったのか」と思いたずねてみたら、実はあの瓦、焼けたため変色したとのこと。つまり、落城した際の遺品という訳。戦国時代の瓦で岐阜城が燃えたなんていえば、斉藤VS信長の稲葉山城落城、関が原の戦い後の岐阜城落城の二回。そのどちらかだろうから、年月日を特定できる!なんとわくわくすることだ。

 しかも、しかも瓦の発見がレアだという金華山山頂で怪しい瓦片3片をつづけて見つけてしまった!!!一つは現代の瓦と思われる大きな破片、一つは黒色で戦国時代といわれた瓦よりも薄いどちらかといえば現代の瓦のような均一な瓦。そしてもう一つは黒色で拾った戦国時代の瓦のような丸みと厚みをもった瓦。いやー、いずれにしてもすぐに目に付いた。
 確か明治時代に再建された岐阜城が昭和に入ってから燃えているから、そのときの瓦片か?・・・とおもいインターネットで今調べてみたら、当時再建された岐阜城は“トタン”葺だそうだ・・・。となると・・・。もしかしたら重要な発見なのか?

 さらに驚いたことは、発見現場からロープウェイに至る金華山の銀座通り。一日100人が通行し(ロープウェイ客も含み)、365日、40年間で仮に考えてみると延べ150万人の人が通っているその銀座通りの道脇で、またまた焼け落ちたと思われる色をした瓦片を発見!

 ちなみに、ときどき拾ったものを持ってくる人がいるらしいが、今回の私のように拾った場所を特定することができる資料(私は拾ったときにデジカメをもっていたので、場所を再現できる情報を記録することに努めた)を持ってくることはほとんどないらしい。今回の私の発見が、何かのお役に立てると最高にうれしいのだが。

 そんな私のときめきを考古学が好きな(というか専門にしている)知人に自慢げにメールを打ったら、彼からうらやましいという返答とともに、彼は愛知県の豊田での発掘を手伝っており、そこでもわりと「すり鉢片」がでてくると情報を貰った。現代ですり鉢を使うのは、とろろ芋、ゴマすりくらいで毎日のものでもない。けれど、すり鉢がなぜそんなに当時(豊田も戦国時代の遺跡らしい)でてくるのだろう。魚をすり身にすることが多かったのか(骨ごとだったりして)?雑穀なんかを粉にして水団や麺にしていたのか(石臼の代わりに)?消化のわるい硬い実のものを良く食べていたのか?どうしてすり鉢がそんなに多く出土するのだろう。現代の考えでいけば、茶碗と箸という食事風景だが、実は当時は食糧事情などからすり鉢に食材をいれ自分ですりつぶしながらものを食べていたとか・・・。もしくは、椿の油を搾り出すためにすり鉢で実をつぶしていたとか(この場合工業的だから一箇所からどっとでるのだろうけれど)・・・。うーん、なんとも興味は尽きない!!!

 戦国時代の人々よ楽しいひと時をありがとう。

 ちなみに、手紙は受け取ってもらえました。

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