月別アーカイブ: 2008年1月

高山に行って来ました

 雪がちらつく中、今日、飛騨の高山(たかやま)にいってきた。いろんな用事があったが、その中の用事である「魚群探知機」についての情報収集は大いにためになった(何のためにかはそのうち判ることだろう・・・)。

 さて、高山。これまでは学生さんと高山にいくときはいつも「高山ラーメン」を2・3件はしごしていた。それでおいしい高山ラーメンを開拓してきた。しかし、それが昨年の「夏の乗鞍合宿」×2あたりから高山ラーメンを卒業して、「ひだ牛」の開拓に乗り出した。

 一軒目。正直失敗。二件目、大当たり!普段あまり好んで肉を食べるほうではないが、あれから半年たつがいまでも味が忘れられない。

 今日の高山出張では、その店で昼ごはんをたべ、その他のメニューを開拓することにしていた。
 
 さて、変な方針だが、普段から肉を食べない私は、もちろん、どんな焼き方がうまいのか正直良く分らない。だから、私のような素人が、ほんとうにうまいといわれるお店で肉を食べるときは、「焼肉」だとか「ひだ牛のほうば味噌焼き」など自分で調理するものは食べないほうがいいと思っている。店で調理したもの、それが一番味が分るのだと・・・。勝手に思っている。だから、最初のときは「ステーキ重(2500円)」を頼んだ。KOのF先生も大満足。うまかった。これ以外になにかうまいものはないかなぁ~。

 しかし、ステーキ重以外に店で調理したものが出てくるのは、釜飯だった。しかしでてくるまでに30分かかるという。しかたないので、「ひだ牛鍋御前(1500円)」というものを頼んだ。テーブルに固形燃料のコンロをおき鍋をかけて自分で調理する、おなじみのやつだ。結果、これは失敗だった。まずくはないが、どこでも食べられる味。

 残念、次回(いつになるだろう)は別のメニューにチャレンジしよう!

 

毎年の情景

shimo 毎年のことではあるけれど、この季節、土日はない。休日もない。しかも朝もない、夜もない。卒業論文も佳境に入り、学生さんとの協働作業が始まる。休むことなどできない。この連休は、それだけではない。この連休、寒気がやってきた。寒い!昨日は氷点下3度。今日は朝から霜柱。うー寒いっ!

takibi 寒いとやはり焚き火が必須。昨日はネパール仕込のモーニングティー。すばやく焚き火をおこし、ヤカンをかけて紅茶をいれる。紅茶をいれたら、火を絶やさないようにして、昼には弁当のお茶をいれるためにまたヤカンをかける。今日は紅茶をいれる時間もなかった。焚き火を囲んで作戦会議。

yugure 今日も日が暮れた。こんな景色を久しぶりに見た。
 
 小学生のころ遊びに夢中になり、闇夜がせまる。闇夜に追いつかれないよう自転車を一生懸命にこいで家路に急ぐ。早く帰らなきゃ母親に叱られるぅぅ・・・。そんな遅くなった僕をあざ笑うかのように風に揺れ体を揺さぶる木々の姿。30年ぶりに、あの恐怖の木のシルエットを見た!

カンフー

40190c18.jpg 今日、早々と家に帰り9時から金華山を登ってきた。久しぶりの夜登山だ。明るいときなら45分で家と山頂とを往復できるが、無灯火登山だとさすがに慎重になり、今日は往復1時間10分かかった。

 家に帰り、テレビをつけると「酔拳2」がやっていた。三度の飯よりカンフー好きの私は、よるアホみたいに金華山に登っていたことを少し後悔した。
 ところで、酔拳の主人公をご存知だろうか。私も10年くらい前までは、中国名など覚えられず、「ジャッキーチェンの酔拳」と覚えていた。しかし、物心ついて注意して観ると「酔拳」「酔拳2」の主人公の名前は「フォン・フェイ・フォン」である。

 フォン・フェイ・フォンは中国史上実在する人物で、中国がイギリスの植民地にされようとしていたときに、イギリスの武力に屈することなく、正義の道を行った中国のヒーロー、武術の達人である。日本で言えば、黒船から幕末にかけて日本の為に命をなげうった幕末の志士と同等か。そんなことで私は、フォン・フェイ・フォンは中国の坂本竜馬だと思い込んでいる。そんなヒーロー扱った映画は以前から作られており、さまざまなフォンフェイフォンを主人公とする物語が存在する。酔拳もその一つだ。今日の酔拳2は、そんな「中国愛」のテーマ設定だ。また、リー・リン・チェイ(ジェットリー)が演じた「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」の主人公もフォン・フェイ・フォンであり、中国愛がテーマ。

 そんな中国の映画を見ていると、中国人は本当に中国を愛していると実感する(あの、少林サッカーだってそうだ。中国の映画は中国を愛している。そうそう、数年前の「ヒーロー」もそうだ)。そんな映画をみると「純粋に命を駆けて自分の国を守ろうとする純粋さ」に40過ぎのオッサンの私は涙があふれてくるのだ。
 知り合いの中国人に聞いたら「子供のころからの愛国心教育はすごいです」といっていた。一方、中国人と同じくらい、日本人は日本を愛しているだろうか・・・。毎日のテレビニュースを見ていると嫌になる。別の意味で泣けてくる・・・。

 そんな中国がいまオリンピック景気や経済発展で熱い。子供の頃、親に「中国展」に小学5年生のときに連れて行ってもらったが(いまから思えば、国交正常化の記念イベントだったと思う)、それから中国という国を知ったが、その時、テレビで放送されていた「自転車天国」「皆同じ服」の中国とは様変わりだ。

 そんな中国も「中国を愛する心」だけは、どうか変わらないでいて欲しい、とカンフー映画を見ながら感じた。

今日も焚き火

takibi2 今朝は、学生さんの卒業研究のお手伝いで、そとで測量の監督をしていました。朝、原付で来てから体が冷えたままだったので、その辺に落ちている木を集めて焚き火をして暖をとった。

 いま、僕の目の前には「木の枝・木屑」があちこちに散乱している。そのおかげで、こうして朝から焚き火を楽しめる。けれど、ネパールのあの雪と岩の世界で暮らす人々は、燃やす木もなく、トレッキングルートに落ちている「ヤク」の糞を乾かし暖をとっていた。しかも、よほど寒くないと火をつけない。
 
 当たりまえのこの日本の環境が本当に恵まれたものだと、焚き火の火を見ながら再認識する。

 また、こうして焚き火をして、二酸化炭素を空気中に排出し、悪魔のことをしているようにおもうけれど、実際は±ゼロなハズ。問題は、土から掘り出して過去に固定された二酸化炭素を大気に戻すこと。そう考えれば、節電や節ガソリンに努めなければならない。そう、僕の原付通勤も「寒くて泣けてくるけれど、地球温暖化対策」なのだ!

 ・・・と、思うこともないことはないが・・・。

原付通勤 防寒対策 試行錯誤

plain 今日は朝から尻に根っこが生えたように、椅子に座りっぱなしで、書類や資料ばかり作っていた。まだやらねばならぬことがあるが、リフレッシュしないといいものもできない。だからブログでも書いてみることにした。
 今朝、原付通勤。寒い。やはり冬は寒いのだ。1月5日の原付は「防寒つなぎ」を着ての昼の運転だった。しかし、少々寒かった。昼に寒いならば、夜の帰りはもっと寒い。そこで寒さを防ぐためリュックを胸側に持って帰った。原付では背中は寒くないが、前から強い風をうけ胸側が寒い。だから、リュックを胸に持ってくるのは正解だ。しかし、隙間風が脇から入ってきてしばらくすると寒くなってきた。先日帰りながら、どうしたら寒くないかを考えていた。

 肌と外気との間に「どれだけ空気を動かさずに溜める」これが決めてだ。どれだけ厚着をしていようが、服を風が透過すれば、服の中で空気が動き、体温で温まった空気を逃し、寒くなる。リュックも正面は完全風をシャットアウトだが、脇があまい。脇のガードがないために、脇から風が透過して寒くなる。

 そこで昨年から考えていたことを具体化する時が来た。究極は発泡スチロールを体にフィットするように削り、体にフィットする断熱層をつくることだ。しかし、これではモビルスーツ、ガンダムになってしまう。昨年はそこで断念。さすがの私も躊躇する・・・。ところが、今日玄関には、インターネットオークションで1.6万円で購入したパソコン(PEN4 3.0G 1G メモリ:OSはリナックスを入れた)の箱があった。その箱の中に写真のようなクッション材があった。
 「ひらめいた!」というわけで、今日はフリースと防寒つなぎの間に、そのクッション材を間に挟み通勤してきた。25キロくらいまでは寒さを感じなかった。それ以降は、隙間風がじわじわ入ってきて少し寒さを感じた。いかん、これではもっと寒くなる2月には使えない!

suit そこで、職場で別のクッション材を探し、改良をしてみた。写真のように体に二重・三重のクッション材を巻きつけ、防寒つなぎで隠すのだ。原付ではアクションも激しくないので、この程度でもいいだろう。さて、帰りが楽しみだ。
 しかし、○浪○に見えないこともない・・・。

金華山の土器 続編

金華山登り口 今日も日課となった金華山に行ってきた。家から金華山山頂(馬の背)、山頂から家の反対側の岩戸公園(東坂登山道)、岩戸公園から山頂、山頂から家(馬の背)。つまり2往復、やく1時間半。これで3回目の岩戸公園のコースだが、いろいろ金華山に登っているが、このコースが一番気持ちがいいのでは?と思う。東南の斜面なので太陽がサンサンとしているし、コースには緩急がある。そんなコースの上り口が写真である。なぜか、傘が・・・。金華山では傘差し登りがはやっているのだろうか?

 さて、正月に拾った土器片。今日、近所の歴史資料館にもっていった。10分歩いたところにある事務所で、「あの~、土器・・・」とたずねたら、歴史資料館は明治以降の文章を保管しているところであって、土器のことなら「文化財保護センター」にお尋ねください、とのこと。そこで、そんなに遠くはなかったので、文化財保護センターに電話を入れた。すると、たらいまわしで申し訳ないが「金華山」の管轄は岐阜市教育委員会だからそちらに行ってください、とのこと。うちに来てもらっても「土器をみて、どの時代の何の目的の・・・と説明ができるだけで、物は岐阜市教育委員会に」といわれた。「そんな私の道楽のために、仕事のお邪魔をしてしまったら申し訳ない」と言ったら、電話で鑑定してくれた。土器の色、形、土の感じ・・・。私はもしかしたら、金華山で古墳時代の遺跡がでるらしいので、そこででてくる「須恵器」というものでは?とも思っもいた。すると、その電話の先の人が言うには、古墳時代にはすり鉢のようなのもはまだ開発されていなかった、なので、おそらく安土桃山時代のものでしょう、とのこと。ついでに、岐阜城の井戸の下で見つけましたというと、おそらく食事の支度などをしているときに落としてしまったのでしょう、などという解説をしてくれた。その話の真偽はおいておいて、それを聞いたとき、そのすり鉢を落とした女中さんの所作と、城の日常生活の一幕を、400年後の僕が時代を超えて感じたような気持ちになった。

 僕は、てっきり斉藤VS織田の城攻めの過程で無造作に割られた、もしくは、関が原の戦い後、廃城の際のゴミとばかり思っていて、なんの生々しい感覚も持っていなかったが、「食事の支度の途中で落として割れた」なんていう話を聞けば、岐阜城の平和な生活の1コマが脳裏に浮かび、なんとも不思議な感覚がした。

 しかし、残念だが、岐阜市教育委員会にはいついけるだろうか。土日は休みだという・・。

仕事(?)はじめ

焚き火1 昨日から仕事はじめ。しかし、今の職場での「仕事始め式」なるもの重要性を理解できない私は昨日、休みをいただいた。だから今日、土曜日が初仕事である。学生を13時に待たせて家をでる。もちろん、一年のけいは元旦にあり、である。原付で出かけた(最近、ネットオークションで防寒つなぎなる服をかったため、それを着用しての原付デビュー)
 一通り学生と話した後は、年末から処理に困っていたオフィスのリニューアルででた木材片をこの人がいない今、ひそかに焚き火して燃やしてしまおう!そう思い、今年最初の焚き火をした。これまで焚き火は「亜鉛」でできたバケツで行っていたが、亜鉛のバケツで焚き火をすると、亜鉛のバケツがすぐに錆びてきて、しばらくすると穴が開き、そのうち原型をとどめなくなる。
 そこで今回は、バーベキュー用コンロをつかった焚き火をしてみた。これならしばらく大丈夫だろう。寒いよるは、焚き火をしながら学生さんと語ろうか・・・。

焚き火2 いい具合に焚き火の”おき”ができてきた。ここで、餅か焼肉かウナギでもあれば、楽しい焚き火でフィニッシュできるが、そんなものはない。

回想ヒマラヤ14 非日常その8

闘牛 この回想ヒマラヤを書くようになり、おそらくブログの読者は減った、そう思う。そりゃそうだ。文字数が多すぎる!!!読む気にもならん。
 以前ある人に言われた。仕事中調度信号で止まったときに読むにちょうど良い長さだからときどきチェックしてます、と。しかも、面白くもない。淡々と私の個人的感想をつづっているだけ・・・。そう思いながらも「思いを吐き出してきたこの『回想ヒマラヤ』、今日でほぼネタは尽きる。最後の回想です。お付き合いください。
 さて、私たちモンゴロイドは青い目の西洋人と違って、そうそうサングラスなど必要ない。海でも、山でも、スキー場でも、なければないですごすことができる目を持っている。そんなことをどこかで読んだことがある。今回のヒマラヤ、それでも私はサングラスを持っていった。なんとなく・・・。
 道中、サングラスをかけてちょっと気取ってみようかと思った。けれど、それは無理だった。なぜなら、乾燥して埃っぽいトレッキングルート、私はマスクを常時着用していたので、サングラスをかけると自分の鼻息でサングラスが曇り、ラーメンでめがねが曇る人のように前が見えなくなるからだ。特に、標高があがればあがるほど、私の鼻息の影響は顕著だった。だから、とくに運動量が激しくなる斜面を登るときは、サングラスなどはつけていられない。足元さえ見えなく危ないのだ。だから、何回もチャレンジしてはみたがサングラスは不便であった。そこでサングラスをかけて気取ることを諦めた。そんな中、チュクン(NHKでF先生が取材を受けていた場所。イムジャ湖への玄関口 標高4700m)のある朝、積雪があった。

アプローチ チュクンからイムジャ湖まで雪道(積雪は3センチくらいか)。上り坂。もちろん、サングラスがあったほうが気取ってていいのだろうが、そんな状況ではなかった。僕たちモンゴロイド。サングラスなくたって大丈夫。そう思って一日仕事をしていた。仕事からもどってチュクンでの夜、尿意をもよおし起きようと思った。しかし、目が痛い・・・。イタタタタ・・・。まるで、目を開けたまま、砂か塩で目を洗っているような痛さだ。もちろん、目を開けることができない。目を開けようとすると涙がでてくる・・・。中学・高校のときの自転車通学で、春一番の風が運んできた砂が目に入ったときの痛さが、涙を流そうが、なにをしようが持続する。そして、気づいた。仮に目があけられても、目が見えないのだ!私は別の意味で凍りついた。こりゃ、アカン。失明しちゃうのか・・・と・・・。
 畜生、完全失明だけは逃れたい!視力が落ちようが、死のリスクを覚悟してまでやってきたヒマラヤだ。少しの光だけでも残れば、ありがたいとしよう。そう思って30分くらい、目の痛さと涙と格闘した。目だけは少しだけ開くようになった。しかし、視力はほとんどなくなった・・・。私は、壁づたいに便所にいって用を足した。そして、涙を流しながらまぶたを閉じ、眠りについた。

グラス 翌朝、目の痛さは残っていたが、幸い視力は落ちたが、以後なんとか眼鏡にたよらず生活できそうである(最近、乱視で見難くなったが、最近まで両目2.0あった)。共同装備で用意した目薬をもらい、赤いウサギの目が白に戻るのをまった。3日ぐらいで目はもとに戻った。後で、サーダーにこの話をすると、彼はいった「私たちは、そのことをグレイシャー・アイ(氷河目)と呼んでいるよ。サングラスはしとらなあかんよ」。彼はそういった。まぁ確かに日本では「雪目」というのを聞いたことがある。きっとそのことだろう。私はもう、サングラスは気取るためのものと考えないことにした。生活の必需品。紫外線から目を守る道具。こころを入れ替えることにした。

 そして、今日、意味もなくサングラスをして金華山に登ってきた。もちろん、すれ違う人でサングラスをしてるのは私だけだった。でもいいのだ。今日からのサングラス登山は「サングラスを自分の鼻息で曇らせないで山に登るにはどうしたらいいのかを発見する」という新しい課題への発見を求めているのだから・・・。

 さて、KO大学では今年の4月下旬から5月下旬まで再びヒマラヤ行きを計画している。こんども声がかかるり、職場の理解も得られれば、今回の反省点を全て解決し万全の体制で臨むのだが・・・。どうなることだろう。

 これで、回想ヒマラヤシリーズは終わります。今後は短い文章を心がけます。どうもありがとうございました。

回想ヒマラヤ13 非日常その7

空港 10月31日カトマンズの空港に降り立った。初めてのネパールだ。なんといってもネパールの玄関。そんなに勝手が違うこともあるまい。
 これまで行った海外でビザを必要とする国はたぶんなかったと思う。しかし、ネパールの場合はビザが必要だ。あらかじめ日本の大使館に申請する必要があるのかと思っていたが、それは現地の空港で、少し並べば購入できるということだった。まぁ勝手が違うのはそれくらいだろう。そう思ってネパールに入った。
ビザを買うために並んでいたため(おまけに必要な顔写真を持っていなかったので、だいぶ焦ったが・・・)、少々入国審査が遅れたが、なんとか通過できた。しかし、遅れて出たために、もう荷物の受け取りのベルトコンベヤーにはほとんどの荷物が運ばれていたようだ。私は自分の大量の荷物を探した。すると7小口くらいの荷物のうち既に5つくらいの荷物は、かためておいてあった。ちょっとだけ「?」と思ったが、まぁ、誰か係りの人が荷物のタグを見て善意でそろえてくれていたのだろうと思った。私は残り2つの荷物が流れてくるのをまった。そして2つの荷物を発見した。しかし、7つの大きな荷物である。手で持っていくわけにはいかない。そこでカートを探した。
 すると、運よく私のほうに笑顔でカートを運んでくる見知らぬ人がいた。「誰だろう?」とはおもったが、何しろここは空港の中、税関の手前である。そんな空港の税関の前段階のところまで出入りできる人は、私の概念からすると「空港職員」に違いない。そう思った。やがてカートを持った2人組が私のもとにやってきて、7つの荷物をカートに載せ始めた。「ちょとまってくれ」。私の人生哲学は「他人の善意に頼ってはいけない。善意は気持ちだけ受け取り感謝し、労働は自ら行う」である。だから2人組みが荷物をそれぞれ1つづつカートに乗せたところで、私は自ら汗を流すべく、彼らの善意を断って自分でカートに荷物を積んだ。そして、仲間に合流すべくカートを押し始めた。
 すると二人組が僕の服を引っ張る。「?」と振り返る。彼らのうちの一人が、右手を自分の胸の位置に持ってきて、親指と人差し指を擦りながら、僕に何かを合図した。「?」。なんだろうと思い考えてみた。・・・なんだろう・・・。しかし、どう考えても状況からすると「チップをくれ」である。しかし、しかし、税関前ではないか?どうしてそんな一般人がそのエリアまで入り込むことができるのだろう。私はネパールという国は私が知る国とはまったく勝手が違うと思い、ポケットから両替したばかりのネパール紙幣をだした。まぁチップである。このくらいの金額でいいだろう。出したのは20ルピーくらい。すると彼は首を横に振る。「?」。「なるほど、これは少ないというアピールか!」私は50ルピーをだした。するとこれまた首を横にふる。いったいいくら払ったらいいのだ?私はポケットの紙幣を取り出し眺めていたら、彼は私の紙幣を指差し「二人分だ、これをくれ」という。900ルピーである。900ルピー札を巻き上げられた。私は、かなりショックだった。900ルピーといったら日本円で1800円。ネパールという国情からすると大金ではないか!この件でネパール人の善意を疑うようになってしまった・・・。(もっとも私は900ルピー札とは変な割り切れない数字の札だと不思議に思っていた・・・。いずれにしても、このショックをKOのF先生に話した。すると彼はいった。あんたねぇ、900なんて札があるかいな。よくみてみぃ。100やで。確かに良く見れば先ほどの札は100ルピー。ネパール文字の100が900にそっくりだったのだ)

 こんなこともあった。カトマンズの空港。ネパールの玄関口。国際空港。その空港からチャーターヘリでシャンボチェ空港(ナムチェバザールの近く)に飛ぶために、カトマンズの空港、国内線乗り場に行った。私は、便意をもよおした。なにしろココはネパールである。ウンコ紙を持って・・・。私は感極まった状態で用をたし、その後始末にかかった。「ん?水洗レバーがないぞ?」まぁいいやきっと水ダメがあり、そこから手桶で水を汲み取り流すのだろう。「あれ、水ダメがない」。でも手桶がある。状況判断からすると便所の個室の壁についた蛇口をひねって水を出し、手桶で受けて、「ウンコ」を流すのだろう。私は知ったかぶりで蛇口をいじり(通常日本で見る蛇口と形が違った)水をだした。そして、ブツを流した。さて、トイレから出ようと思ったが、水が止まらない。おかげで便所の床は水浸しになっている。蛇口からどうやって水を出したのか覚えていないから、水をどうやって止めていいのかわからない。試行錯誤を一分ぐらい続けた。しかし、水はとまらない。このまま便所から出て知らんふりすることもありえるが、それにはあまりに水の勢いが強すぎる。・・・。困った・・・。ちょうどそのとき、便所の掃除のおじさんがやってきた。私は便所掃除のおじさんに助けを求めた。彼は簡単に水を止めてくれた。「サンキュー」といって立ち去ろうとすると、便上掃除おやじは、またあの見覚えのあるポーズをした。手を胸のまえに持ってきて、親指と人差し指を擦った。なんと、この親父チップをようきゅうするのかぁ~!だいぶショックだった。彼に20ルピーを渡したが、そのオヤジ、うけとった瞬間、舌打ちをした。

 さらにこんなこともあった。シャンボチェ空港にいくための国内線搭乗前の荷物検査、まえの西洋人は非常に厳しいチェックを受けていた。荷物は全てあけられ、ひとつづつ「これは何か?」とたずねられていた。西洋人はそこで「アーミーナイフを没収された。機内持ち込みはだめだと」しかし西洋人はねばった「なんとか機内持ち込みではなく、手荷物預かりに回すから許してくれ・・・」などといいながら交渉していたが、検査官は首を立てに振らず、西洋人はなくなくアーミーナイフを手放した。私はそれを見ていて、このはなかなか厳しいぞと思った。となると、私はビデオ・パソコン・GPSなど見るからに怪しい荷物を持っている。いちいち聞かれて面倒くさい。覚悟して検査官に挑んだ。もっとも怪しくみえる荷物を彼に示した。するとその彼は、まずそのケースの中にあったボールペンをチェックした。えーー、ボールペンからチェックされるのかぁ~と思い、気の遠くなりそうな検査でうんざりした。しかし、彼の話を聞いてみると、信じられないことだが彼はこういった。「このボールペンは俺のものか?」。私はわけがわからなった。でも、まぁいい、あんたにあげるよといった。すると彼はうれしそうに私のかばんの中のボールペンをポケットに入れ、あとの荷物の検査もせずに私を荷物検査から解放してくれた。

 とにかく、カトマンズで人間不信に陥り、かなり傷心した。

ヒラリースクール さて、シャンボチェ空港からナムチェバザールに入り。ナムチェバザールで高度順化のため3日間滞在した。その間に、ナムチェ付近の標高が少し高いところにいって体を慣らす。そんなあるひ、クムジュンというシェルパの町にいった。ここには、エベレスト初登頂者の「エドモンド・サー・ヒラリー」が立てた「ヒラリースクール」がある。シェルパへの感謝の気持ちからシェルパの教育をになおうという社会事業だ。ヒラリーは山登りするものにとって「神」に近いヒーローだ。そんな彼のつくった学校の横を通った。学校では子供たちが屈託ない笑顔で走り回って遊んでいた。シェルパに学校にはいってもいいかと聞けば、どうそという。そこで神の学校に入った。笑顔の子供たちが寄ってきて、デジタルカメラをものめずらしそうに眺め、デジカメで撮った写真を彼らに見せると彼らは完成をあげる。もちろん、私も彼らの姿をとりたかった。でも・・・、カトマンズのことがある。あの笑顔の子供たちの写真を撮ったあと、あの笑顔の子供たちからチップを要求されたら・・・。チップを払うことはなんでもない。お金の問題ではない。もしもあの素敵な子供たちからそんなことをされたら、僕は立ち直れないほど人間不信になる。それが怖くて彼らにカメラを向けられなかった。

結局、子供たちはチップを要求することなく、デジカメにうつる自分たちの顔をみて、純粋に喜んでいたようだった・・・。よかったぁ・・・。

回想ヒマラヤ12 非日常その6

377796f6.jpg 話には聞いていたが・・・。そんな光景を目の当たりにびっくりしたことの1つ。見た目には車が走り、僕たちが来ているズボンやシャツを着ていて、これが最貧国か?と思わないカトマンズ。もしも裸で人が往来を闊歩し、乗り物が馬か牛か、であれば「なるほどこれが発展途上国」と思っていたのだが。しかしカトマンズは想像できる範囲内のテレビで観る国と変わりないと最初は思った。
 ところが、写真のような光景を目の当たりにすると、テレビで観る、本で読む世界を通りこして、かなりショックだった。行き倒れの人を何人か見かけた。もしかして、これは死んでいるのかと思ったが、とりあえず写真の人はその後、「ムクッ」と起き上がりその場を立ち去った。想像するに、田舎から職を求めて首都にやってきたが仕事がなく、家もなく、食事もあまり取れないので、路上で・・・。なのだろう。
 またこんなこともあった。われわれがバスで移動中、交差点で止まる。すると中央分離帯に上った10代にも満たない少年が、われわれのバスの中に向かって、手を口に持っていって食べるしぐさをしたあと、両手を合わせ頭を下げて祈ることを繰り返していた。少年の目には涙が浮かんでいた。
 
 ・・・。

 ・・・。

 ・・・。

 こんな光景をいくつも目にしていると、やっぱり考えてしまう。「地球温暖化」だとか「今年のイルミネーション」「騒がしい芸人のグルメ番組」。・・・。・・・。ほんとに大事なことってなんだろう。

 学生の頃から「南北問題(貧しい国ととめる国との格差問題)」についていつもことあるごとに考えている私。今回の光景を前に、まだ最適解を見つけるには程遠いが、心に残る貴重な事象を得た。