月別アーカイブ: 2008年5月

最近・・・

 最近、ブログを更新できていないし、今回のヒマラヤもあまりまとまっていない・・・。理由は、忙しすぎて文章をかこうという気持ちになれないからで・・・。

 私の仕事は、一年を前期と後期に分けて時間割があるため、前回の秋(後期)と今回の春(前期)とは授業の数が大いに違う。春は秋よりも授業がバイくらいある。なので、秋のときはヒマラヤであけた授業の穴は、同僚と補講数回で解決できたが、今回は同僚に頼らないことにしてたので、ヒマラヤ期間の授業は全部、いまから夏にかけて行うことにした。
 そのため、授業だらけ・・・。今週なんて、月曜日・火曜日・水曜日は終日授業で木曜日・金曜日はそれぞれ半日授業。このための準備もままならない。ブログどころではないのはそのため。

 いまも昼からの授業準備で昼飯どころではない。

閑話休題

影 今回のヒマラヤにはカメラのレンズは以前以上のものを持っていった。カメラはデジカメ一眼のキャノンイオス(安いモデル)。それにレンズはキャノンの200mmのLレンズ、28-200のシグマズームレンズ、12-24のシグマズームレンズ、50m F1.8、20mm F2.8のキャノン短焦点。前回の写真でなかなかいいのが取れたと思ったので、今回はそれを上回る・・・と期待しながら重いレンズを持っていった。
 ところが、あまりいい写真は取れなかった。まぁ気分が乗ってこなかったからだと思う。そんな中、幸いにもとれた4つのベストショッツを紹介しよう。

 まずは、標高5000mのベースキャンプの朝、8000mのローツェ方面をみると、雪の白・雲の白を背景に逆光でシルエットを際立った人を発見。テントに戻って200mmのLレンズを構えてとった写真。自分では写真を引き伸ばして飾ろうと思っている。

hosi 次の写真は、準備段階で説明したが、赤道儀とよばれる星の写真をとる道具を今回入手して、ぶっつけ本番で星の写真を撮ってみた。イムジャ湖では朝晴れ、昼曇り+強風、夜曇り、深夜晴れという天気が続いた。毎晩星の写真を撮ろうと頑張ったが、寝るときはいつも曇っていた。この写真は、深夜3時ごろトイレにおきたとき、見上げた夜空がきれいだったのであわてて赤道儀とカメラを構え撮影したもの。地球の自転にあわせて動く星を点に移しつつ、山も移るようにするためいは、広角レンズが適当だとおもったが、シャッタースピードがなかなか難しかった。

tent 次の写真は、アンプラクチャという5800mの峠を登るときのベースキャンプ。下痢気味だった私は、夕方、暗闇にまぎれてテント近くで排便をしていた。すると、光・雲・テントの明かりがぐっとタイミングだと直感した。カメラをもって外にでていた私は、用を足しながら石の上にカメラを載せてシャッターを切った。これから登る峠の不安・天気の不安・高山病への不安・死への不安・・・。そんな不安が写真で表現できたと思う一作。

niji イムジャこのベースキャンプから撤収したその日、4700mのチュクンという村で、ヒマラヤに残置していく荷物のチェックをしていた。すると見る見るアイランドピークあたりの雲が色気づき、あれよ、あれよというまに虹色に。そして、時間とともに色は濃くなり・・・。生まれて初めて見る「はっきりした日輪」に少々びっくりしつつ、ものの記念にシャッターをきった。

ルーナ・イヤー

ルクラ家 今回のネパール・エベレスト街道を歩いていてカトマンズの喧騒なみに驚いたことがある。私が宿泊した町、ルクラ・ナムチェ・パンボチェ・ディンボチェいずれの町も、トンカチ・トンカチあさから石を蚤で削る音がこだましていたことだ。昨年は、ディンボチェの一箇所だけ(しかも石をうつ音は既に終わり内装工事だった)。それに比べ今回は、多くの建築物件を見た。

 不思議に思い、シェルパのリーダーであるサーダーに聞いてみた。すると建設ラッシュが続く理由を教えてくれた。昨年は、ルーナ・イヤーといって、日本でいう厄まわりの悪い年で、結婚・建設などの行事を控える年だったそうだ。またその厄まわりの悪い年は12年に1度めぐってくるとのこと。そのルーナ・イヤーがあけたので今年は建設ラッシュなのだという。

 どうりで。一人納得してはみたが、更に聞きたいことができた。それは建築コストだ。石をトンカチトンカチ叩いて、石組みの壁をつくっているわけだが、数時間みていたところで一列もできない。しかも、石職人は10人以上いる。どうかんがえても人件費が高くつく。そこでシェルパに聞いた。「家(ロッジ)はいくらでできるのか?」。もちろん、大きさがまちまちなので、一概に値段もいえないし、日本のように坪単価という概念もなさそうだ。彼はナムチェで説明してくれた。ナムチェで建設中の「あの3F建ての建物」だったらあれは10,000,000ルピーだろう、とのこと。一千万ルピー!ざっと2千万円。別にたいしたことないように思えるかもしれない。ところが、職人の日当を聞いて、一千万ルピーの大きさをしった。

 シェルパは続けて言う。あの石職人たち、一日に2つの石の形をととのえるだけの作業量。つまり、トンカチトンカチ石を叩いて2つの石を加工して並べる。その彼らの日当は500ルピーだそうだ。ざっと、1000円だ。一日の労働賃金の10000万倍の家。仮に日本の職人の日当が1万円としたら1億円、3万円(技術者ということで単なる日雇い単価以上の価格だろうから)だとしたら3億円。そんなロッジ。誰がそんな高価な家を建てるのだろう?続けざまに、誰がそんな大金を使うのか?そう聞いてみた。すると納得の答えが返ってきた。多くのロッジのオーナーなどは外国でしばらく働きお金を貯めた者だ。ネパールにいながらにそれだけの大金をえるということはまずないからね・・・。とのこと。

 ついでに聞いてみた。ポーターの日当は?通常30キロくらいの荷物を運ぶポーターには一日食事込みで500ルピーを渡している。ただし、重い荷物や運びにくい荷物を運ぶポーターには1000ルピーを出している。話は変るがポーターらの食事風景を見てびっくりした。一日二食の彼らの一食の食事の量は、なんと、洗面器2杯分の米にダル(豆スープ)をぶっ掛けたもの。彼らは、それらをあっという間に食い尽くす。もちろん体力がいる仕事だから沢山食べるのはりかいできる。しかし、半端でない食事量は賃金内で支払う。その食事にかかる代金は一人一食50ルピーほどとのこと。つまり、一日2食だから、収入の2割が食事に消える。

 一方、ポーターよりも労働がきつくないキッチンボーイはいくらだろうか?サーダーによれば400ルピーだそうだ。

 こういった話を聞くと聞きたくなるのが、シェルパの単価だ。サーダーは自らいった。私は380ルピーだと。えっ、ポーター・キッチンボーイ・シェルパ・サーダー(シェルパ)という指令系統でいけば最上部にいる彼が一番安いとは・・・。しかも、彼の下にいるシェルパはもっと安い・・・だろう・・・。驚きだ。
ただ、シェルパでもクライミングシェルパといって登山専用のシェルパには、お客を登山でサポートすれば、それなりのボーナスがでる。昨年、のぼったアイランドピークをサポートするシェルパは10,000ルピーのボーナスがもらえるとのこと。
 今回の我々の遠征では再びアイランドピーク登山を候補にはいれていたので、3人のクライミングシェルパが用意された。彼らは日給が380ルピー以下のなか、10000ルピーのボーナスに期待が大に違いなかった。ところが、プロジェクトリーダーの気まぐれで3人のクライミングシェルパには活躍の場がなく、ボーナスはフイに・・・。
 多くのシェルパにとって、一年で稼げる機会は秋と春の合計4ヶ月だけ。しかも、それぞれに合計4回のお客にめぐり合うのが例年だとのこと。つまり、稼げるのは一年のうちの4ヶ月だけで、しかも、その4ヶ月も仕事が埋まるのは半分あればいいところ。その半分が380ルピー×日数だ。1万ルピーは大きかっただろうに・・・。現金にたよらなければならない生活をしている彼ら、なかなか財布は厳しかろう・・・。

 そんなことで、かのサーダーもこれまでに数度、オーストリアで皿洗いなどの日雇い労働をして収入を得て生活した経験もあるとのことだった。

 そんなことに心を痛めながら、あるシェルパの言葉にまたこころをいためた。「お前の登山靴、いい登山靴だね。これいくら?」なやんだ挙句に正直に、600ドル(35000ルピーくらい)とこたえた。この値段の響きを彼はどう感じたんだろう・・・。

パンボチェハウス

静かだったカトマンズ

a72cefe2.JPG 昨年カトマンズに降り立ったとき、粉塵・砂煙と排気ガス、車とバイクのクラクションで、一刻も早くカトマンズを離れたいと思った。今回もそのつもりだった。

 ところが、カトマンズに降り立てば、まず空港が閑散とし、前回びっくりした勝手に荷物を集めてチップをねだるなぞのオッサンもいなかった。そればかりではない。車のクラクションも許容範囲だった。なぜか・・・?もちろんそんなことは知らない。しかし、こう理解することにした。

 先の選挙で与党が破れ、マオイストとよばれる元反政府ゲリラが圧勝した。そのおかげで王政は消滅し、新規政権が樹立する。ところが、マオイストさえ想像していなかったという選挙。それほど、これまでの政権はこの国を困窮に導いていた、らしい。

 おかげで、町中は写真の通り停電につぐ停電。エネルギーは需要を供給が満たして折らず、夕方からローソク営業する店が数々。昨年は、単に街灯がともっていなかった(街灯はあるが、電気はついていなかった)だけだが、今回は、家の明かりもともっていなかった・・・。

 また、ガソリンが恐ろしく高い。ウル覚えで間違った数字かもしれないが、確か、トレッキングの最中、船を動かす船外機のためにガソリンを買ったが、一リットルが500ルピーだったと思う。カトマンズでかったわけではなく、ナムチェバザール近くのクムジュンという村(シェルパの村)だったため、割り高ではあるが、日本よりもはるかに高かった!!!

 500ルピー、日本円で千円程度だが、それがどれ程高いのか?
 
 のちに詳しく説明するが、ポーターの日当だ。40,50キロの荷物を一日かついでやっと一リットルのガソリンの値段に匹敵。

 カトマンズではもう少し安いとしても、そんな高価なガソリン(最近値上がったうえ、数量制限があるらしい)を購入できる人はわずかなものだし、そんな高価なガソリンだ、使い控えするだろう。

 そんなことだとおもうが、ともかくネパールは政情不安と物価の高騰で大変な状況のようだったが、クラクションや排ガス・粉塵がすくなく、少しは快適な町になっていた。

ヒマラヤの目的 2008春

glacier_lake もうヒマラヤから戻って数日経つ。毎日、机に向かうが頭がオフィスワークモードにならずに、困っている。椅子に座っても、まるで運動後のように脳みそがうまいこと一点に集中できず、雲の上を歩くような・・・(もちろん歩いたことはないから想像の範囲だが)心持だ。しかも、悪いことに眠くて、眠くてしょうがない。毎晩、8時には床に就き、6時半のモーニングティーで目覚める。そんな習慣がまだ抜けない。
 さて、なかなか仕事にとりかかることができないので、ここはブログでも書いて脳みそのリハビリをすることにしよう。

 2008年春のヒマラヤ遠征。結果的にいうと、もう私がヒマラヤに行くことはないとおもう。心身ともに疲れた。そんな今回の遠征の目的は・・・。これがプロジェクトリーダーの心の中だけにあり(?)まことに表現が難しいが、あえてここに書き出してみるとする。
 目的は全部で9つあるように思った。プロジェクトリーダーはことあるごとに目的は5つと公言していたが・・・。
 目的1 ヒマラヤのエベレスト周辺にあるイムジャ湖という氷河がとけてできた湖。この湖をモニタリングする施設を昨年秋の遠征で作った。ところが、11月半ばから稼動しなくなっている。そこで今回はその装置の修理または交換を行う。

 目的2 目的1の装置は湖全貌を見渡す位置にない。そこで、湖全体を見渡す位置に新たに装置を設置する。(この装置のことをフィールドサーバーといい、以下にはFSと略すとする)

 目的3 FSに水位計を設置し、ある警戒水位以上になったら流域に決壊警戒メールを発信する仕組みをつくる。

 目的4 湖の湖底測量。湖に蓄えられている水量を推計。

 目的5 地形測量。湖をせき止めている土量の推計。

 目的6 物理探査。湖をせき止めている土石の構造解析。

 目的7 湖周辺に測量の基準となる基準点の設置。

 目的8 電力確保の一手段としての水力発電の可能性チェック。

 目的9 イムジャ湖以外の周辺氷河の俯瞰。

 目的10 衛星から識別可能なコーナーリフレクターの湖周辺への設置。

こんなところではないだろうか。

その中で私が担当したのは
目的3の水位計の手配と設置工事、目的4、目的5、目的8、目的9、目的10である。
それぞれが、言い尽くせぬ事件だらけのものであったが、目的4と目的5以外についていは当初の目的を達することとなった。

そんな今回のプロジェクトは、四六時中NHKが同行していたので、6月7日の特番を皮切りに、その後のクローズアップ現代やBSニュースなどで、私を含め本隊の活動が放送されると思う。というか、まるで、NHKのドキュメンタリードラマをとるためにこのヒマラヤに来たんじゃないかと思う節が多かった。

上の写真は、湖が凍っていたため船で湖底測量ができなかった湖の状態で
下の写真は、9日間くらしたNHKと合同のベースキャンプ(5000m)

base_camp

帰国

 今週の水曜日に帰国しました。
 木曜日は出勤。今日は半日休みをもらい午後から出勤。前回と比べて体調も悪くなく元気にすごせています。

 かといって、ブログにあのヒマラヤ4週間をまとめようと思っても、なかなかまとまる話も見出せず・・・。機会をみながらヒマラヤの報告をしようと思います。

 さてその前に。今回のヒマラヤでは僕たちの身近なところで数人の方が亡くなりました。僕たちを取材予定だった日本テレビのスタッフ。また僕とF先生が登ったアンプラクチャという峠(5840m)を登っていたイタリア人。お二人が高山病でなくなりました。
 なくなったわけではないけれど、昨年私たちがつかっい今回使用を検討していた「ロシア製チャーターヘリ」も私たちがネパール入りしたころ墜落・・・。
 
 思い返せば死の境界ギリギリの活動をしていたのだと実感しています。

 なんとも、無事に帰れてよかったと。

 まずは取り急ぎ帰国の報告まで。