いろんな理由から本を読むことが、ここ2・3週間多くなった。土曜日は名古屋で「住宅資材の展示会」があり、林業を考えるために、午後から展示会に出かけた。途中、名駅の三省堂書店にいき、数冊かってきた。しかし、本屋に行くたびに思うが、まだまだ知らないことが多くて読みたい本がいろいろあるが、一冊何時間もかかることを思うととても気になる本を全て読むことはできない。本をむしゃむしゃ食べたら、そこに書いてあることの2%くらい分れば便利なのにと昔から思う。
そんなことで、本を数冊買った。もちろん、読みかけの「天璋院篤姫」下巻も購入した。帰りの電車から読み始めた。午前2時には読み終えた。上巻は読みづらく時間がかかったり、途中で飽き飽きしてきたり・・・。しかし、下巻はあっという間だった。
これは自分の仮説。
上巻を読み始めたのはヒマラヤ帰り直後。いま、帰ってから一月たった。この一ヶ月の中での実感だが、帰った最初のころは頭をつかう仕事は「心ここにあらず」という感じで、うっかりしていることが多かった。もちろん、体力勝負は冴えているが・・・。最近は、頭を使う仕事も以前と同じ感覚に近づいてきた。おそらく篤姫が読みにくかったのは、ヒマラヤでの生活が脳みその回路を活字理解から遠ざけていたからではないだろうか・・・。そう思といろいろなことが理解しやすいので、もう勝手にそう思うことにした。
さて、篤姫。面白かった。原作とドラマとの話の筋の違い方もそうだが、たとえば、慶喜の描き方も司馬遼太郎の『最後の将軍』とまったく異なる点もおもしろい。
幕末の歴史に興味を持っていた亡き兄が、そこに何を感じていたのか知ろうと思い、幕末の歴史書や小説を読み漁っていた時期がある。兄が好きだった竜馬から読み始めたので、司馬遼太郎の『竜馬が行く』から読む。これまでも気になっていたが、司馬遼太郎は主人公を「完璧」な「英雄」にしたてあげる。そのおかげで竜馬には「人間臭さ」を私は感じなかった。『最後の将軍』慶喜についてもそうだった。それ以来、慶喜のイメージは『最後の将軍』で固定された。
一方、篤姫の中の慶喜は・・・。NHK大河ドラマに釘づけだ。