月別アーカイブ: 2008年9月

人間ドック

 今日、人間ドックだった。最近、調子の悪いと自覚するのは目と胃腸関連。そして気になるのは虫歯。だから標準にプラスして「癌マーカー」「歯科検診」をオプションでつけた。

 結果だが、視力が落ちた以外は昨年の絶好調のときと変わらない。(もっとも一番やばい胆嚢の結果は今日出ていないので最終判断はまだでないのだが)。体重は若干1キロほど昨年より増えていたようだが、身長と体重との関係は理想だそうだ。
 一日二食しか食べていないが、栄養状態もいいということだし・・・。

 ただ、気になるのは心拍・赤血球・血圧の関係だ。よく、じょ脈と指摘される。つまり心拍数がすくないということ。今回も一分間に46回。それはそれでいいのだが、私は標準値ではあるが、もともと赤血球の数が平均以下。つまり酸素を運ぶ能力が弱い。空気が薄いヒマラヤに行くとき大いにびくびくしていたものだ。
 さて、心拍が少ない中、酸素を運ぶ能力が小さい(赤血球がすくない)なら、体中に酸素を十分にまわすには、一回に送る血液の量が多くなければ、酸欠になる。酸欠になっている自覚がない私は、もしかしたら心臓が送り出す血液が多いのかもしれない。しかし、心臓が送り出す血液が多いなら血圧が高くなるのでは?

 しかし、私の血圧は比較的110くらいと高いほうではない。ということは、血管が太いはずだと思うのだが・・・。私は採血のとき、よく血管が見えにくいといわれ看護師さん泣かせ。だから血管が太いという自覚はない。

 いつも限界に、極限にと体を酷使しようとする傾向にある私。自分の体の特徴を理解しておきたいが、どうやら体は私のような素人が考えて分るような簡単なシステムではなさそうだ・・・。

さすが中国4千年

be2ddc3b.jpg私の目の疲れと、「凝り」の件だが、インターネットで調べてみたら、攅竹(さんちく)と四白(しはく)と呼ばれるつぼで、両方とも「眼精疲労」のツボだそうだ。やはり、その箇所が「凝る」(痛い)のは目の疲れか!

週末

ba9f3fa7.jpg 8月、9月での新しいソフトウェアを覚えるために、無我夢中でパソコンに向かっていたためだと思うが、「目」が悪くなったと実感する。これまでも、こうなったときはしばらくパソコンから離れていれば気にならない程度には回復する。そこで週末はパソコンを使わないようにしようと決意した。

 そのため、土曜日は読書をすることにしていた。頭の中の「残骸」を一旦掃除するために、何かに没頭したいと思うからだ。そこで手にした本は「菊とバット」。この本は、第二次世界大戦を勝つと確信していたアメリカが、勝った後の統治をどのように進めたらよいのかを考えるために、文化人類会社 ルーズ・ベネディクトに、戦争でつかまった捕虜などから日本人の考え方を分析させた日本文化論だ。これをパロッた「菊とバット」は大学生時代、野球嫌いの指導教官が書評していた本。そのときの記憶では、日本人はなぜ野球が好きなのか、なぜならそこには日本の文化の縮図が表現されているから、といっていた。

 さて、なぜこの本を知って20年目にして読もうと思ったのか。理由がある。北京オリンピックだ。中日の監督を退いてからの星野仙一の言葉が妙に引っかかる。「野球第一主義」のあの考え方だ。幼少の頃、自分が野球で夢を見て・・・などということだが、それはいいとして、だからといって・・・と思っていた。また、北京オリンピックの野球の観客についても気になっていた。鳴り物はなかったものの、観客は「奇妙な応援歌(節)」で騒いでいた。アメリカの野球観戦は静かなものだ。日本国内で麺を音を立てて食うのはかまわんが、外国にいったらいかがなものかと思う私。中国人が日本の料理屋でテーブルを汚して食べるのを軽蔑しながら見る日本人。床に座り膝を立てて飯を食う韓国人を、信じられないとばかりの目で見る日本人。私は北京オリンピックの野球の試合を見ながら、ちょっと日本人として恥ずかしいかった。それに輪をかけて星野仙一の言動・・・。ちょっと野球のことを知りたくなった。世界的にみた日本の野球のことを。

 一冊読んでみたが、「菊と刀」のような「満足感をえられる高尚な文化論」ではなかった。まるでスポーツ新聞の外国人記者が日本野球は奇妙だ、奇妙だと書き立てているだけの、日本深層と野球との関係を知りたいと思ったものには、物足らない一冊だった。

 一冊、読むのにもそこそこ時間がかかる。時間をかけた得られるものがなかった。タイトル負けしていた本。読み終えてドット疲れた。そのため、私の目は余計疲れた・・・。おかげで、これまでは右目が「凝る」だけだったが、今回は左目も「凝り」しかも左右の頬にも「凝り」のツボが現れた。8つのピップエレキバンを顔にはり対応。おかげで週末、外に出れなかった・・・。

錯覚

 ときどき、会議に出ていても、テレビを見ていても、「なんでこんなことが問題になるのか」と異常なまでの取り上げ方に、自分の頭がイカレテイルのかと思うときがある。最近特にそういうのが多くなってきた。

 もうたまらない。ちょっと自分の頭を整理するため文字にしてみようと思う。

 最近では、小泉元首相引退の話だ。私にしてみたら当然のこと。前から言っていたし、総理の任期が終わったら、それと同時に引退するのかと思っていたくらいだ。いままで、議員でいたのが小泉的に不本意なんだろうと思っていた。

 イギリスの首相にしても、アメリカの大統領にしても、それぞれの職務を終えたらただの人になっている。政治を動かすポジションに就きたいと思えば、さらに首相なら大統領をつづけるだけの話。小泉元首相も政治を動かすポジションに就きたいと思わなくなったのだから、これまでのご苦労を癒す物見遊山にでもいきたいのだろうと、いままでズーッと思っていた。それが道理だと。

 そんな一方、過去の首相経験者、安部も森も・・・。いまでに議員を務めている。私にはそれが理解できない。しかも、森などは現首相にもモノを申す影響力を持っている。私にはその仕組みが理解できない。首相経験者がいまだに議員であることが理解できない。卓越した能力をもつけれども、歳を重ねて体に無理が利かなくなったので、若い人に譲る。代わりに私は速報支援するというなら分かる。ところが、多くの首相経験者は「降ろされた」に等しい。それは「恥」であると思う。「恥」をさらしたあなたが、なぜ国政に暗躍するのか?なぜ、誰もそういわない。あなたは、「ノー」といわれたのだから、この際政界から身を引くべきだろう。その点、福田さんの気持ちはわかる。
 
 ある日のニュース「福田さんは次回衆議院に出馬しない!?」。そりゃそうだろう。私が福田さんの立場なら(そんなことがあることは絶対にないが)、出馬はしない。

 小泉さんも福田さんも、そうして「えっーー、なぜ!!!」と報道されるのか?私は頭がおかしいのだろうか?

ヒマラヤ

 9月27日の午後10:10から11:00の間、NHK BSで「未来への提言」という番組が放映される。タイトルは「 氷河学者 ロニー・トンプソン ~氷が語る地球の危機~」というものです。氷河学者へのKO大学のF先生のロングインタビューがメインの内容だそうです。その中で、F先生の紹介のところで、「私」が3秒ほど映るらしいです。明日のテレビを見ながらヒマラヤの日々を思い返そうと思います。

 10月9日では学内の授業で「ヒマラヤの話」をすることになりそうです。そんなことで、最近はヒマラヤのことをいろいろ思い返しています。動画や写真を振り返ってみてみると、ヒマラヤの「匂い」「空気」「喧騒と静寂」、陽気だったシェルパとの別れの瞬間に一瞬曇った彼らの表情・・・。思い返されます。

 二度目からかえったときは、もう、二度と行くこともないだろうと思っていたヒマラヤですが、もちろん、いまももう行くことはないと思っていますが・・・人生のあの貴重な非日常体験が鮮明に思い返されます。

プレゼンテーション

 もうじき、うちの学生の2年生は課題研究(通常の卒論)の中間発表を迎える。今年は2名の学生を持つが、毎年のことだが、発表資料を出されると「うーん」と思うことがある。
 指導を受ける学生は、物事を難しく考えすぎだ。100を調べたら100のことを全て盛り込みたいと考える。そうすると、問題は大事な話の筋道を忘れて細かいことに走りすぎ、物事の論理が通らなくなり、私に怒られることとなる。

 課題研究の発表とは、観光客が、バスガイドに案内されて世界遺産をまわると思えば考えやすい(?)。バスガイドは発表者、観光客が聞き手だ。

 私の周りにもすばらしい発表をする人がいる。その方は、難しい概念も中学生にもわかるように簡単に説明する。神業だ。だから、異分野の私でも非常に参考になる知見を得ることができる。これはまねしてまねできるものではない。まして初心者には無理だ。私の要求はそれではない。

 人に説明して分かってもらうことは、裏を返せば、いままで分からなかったことが分かるようになってもらうことだ。そこで重要なのは、論理、つまり話の筋道だ。人は論理で考え、論理的に腑に落ちたものを直感で分かる。(日ごろから問題意識がある人は、論理は必要なく、腑に落ちたもので分かるにいたる。その場合は、彼は人にそれを説明することができないが・・・)。

 日ごろから、あることに問題意識のある人は、つねにそれにかんする周辺情報を身近に覚えている。けれども、あることが分からないのは、「キー」がないからだ。だから周辺知識が有機的に結びつかず、分からないままだ。そんなわけだから、日ごろから問題意識を持っている人にとって、人の発表に必要なのは「キー」を得ることだ。話の道筋はどうでもいい。単語単位でキーを捜しながら話を聞く。一方、日ごろから問題意識を持っていない人にとって、誰かが(発表者)毎日考え続けて結論に至ったことが分かるためには、「手取り」「足取り」説明をしなければならない。その説明に必要なものが論理、話の筋道だ。なぜ、その話が重要なのかから始まって・・・。だから難しい話は必要ない。もちろん、例外はあるが、そんなのは【質問」されたときにこたえればいい、それくらいの気持ちだ。

 うちの学校の課題研究などはまさに、それだ。皆専門がバラバラ。だからそれぞれが個別に取り組んでいることなど理解できない。となると、学生さんに必要なのは、自分のやっていることを中学生に説明するのと同じだ。難しく考えることはない。

 「空手バカ一代」の中にこんな会話がある。「実践では、こんなことはありえないのに、どうして、そんな練習をしないといけないのか」(とび蹴りの練習をするときにはるかに頭よりも高い位置のボールをける練習をするときの会話)。大山曰く「実践では練習の数十パーセントのことしかできない。つまり実践よりも高いレベルが実行できないものが、どうして実践で力を発揮できるのか」。
 また、こんな会話をパラリンピックの報道で知った「本番で楽になるためには、練習では本番以上の辛い練習をしないといけない」
 また、最近あった北海道女子マラソンの優勝者が恩師の小出監督から言われたことをいっていた。「練習でできなことは本番でできないんだよ」。

 つまり、発表という本番は、本番。しかし、そこにいたるまでは発表することの数十パーセント深く調べていないといけないということに通じる意見。それぞれの上の会話は私はそのとおりだと思う。
 
 うちの学生に望むのは、業界では説明すれば業界人にもわかることを、中学生にもわかるように説明するように発表に道筋を考えてほしいということ。そんなに難しいことではない。

b3e1fc5f.jpg 先日、バイクで転んだ。振り返ると、なぜこけたのかあまり詳細に覚えていない。いろいろ振り返ると、きっと体が年をとったのだろう。昔ならすぐに反応できたことも歳を重ねると反応も鈍くなる。そういうことだと思うことにし、ますます、無理するのはよそうと思う。
 そんな中、最近とくにおとろえてきたかなぁと思うのは目だ。少なくとも十年前までは両目が2.0あった。その後、右目に乱視が入ってきて、目を凝らせばちゃんと月も一つに見えるが、目を凝らさなければ、像が二重になる。しかし、それでも数年前までは視力検査では1.5か2.0だった。ただ、私としては右目と左目の乱視の具合が悪いので、本が読みづらく、できれば乱視を矯正するメガネが欲しいとおもっているのだが、視力検査のとき、それを訴えてもとりあってもらえない。

 さて、この8月パソコンと向き合いすぎたためか、また右目の調子が悪くなってきた。ヒマラヤにいくときは、あまりパソコンと向き合う時間もなかったが、このところ・・・。右目の視力が再び落ち込んできたように感じる。ヒマラヤのときには目に不自由を感じなかったのでおそらく、視力は戻っていたと思う。目の調子が悪かったことなんかは忘れていたからだ。
 ところで、第一回のヒマラヤでサングラスなしで失明しかけた経験以来、目薬をさす習慣ができた。そして今日、人生初めての出来事にであった。目薬を終わりまで使い切ったことだ。
 これまで、小学校のときなど、プールのあとに目薬・・・などをしてきたが、いままでの人生で目薬を使い切ったことがない。途中でなくなるのが通常で、数年後に発見したときはもう、使用期限を過ぎている。ところが、今回は使い切った。これは老いのせいで毎日手放せなくなったことだろう。
 こうしてがんばって目薬をさしてきたが、それでもちょっと目の調子がわるい。それは右目の眼球と骨の境目あたりが「凝る」っているのである。これまでも数回そういった症状がでてきた。ちょうど、眉毛の始まりの下あたりだ。抑えると痛い・・・。そんなときはこれまでも「こり」だと思いピップエレキバンを貼って治療してきた。ただ、家でしか、この恥ずかしい治療行為はできないので、職場ではなす術はない。

 目薬でもだめ、エレキ判でもだめ。なんか目にいい治療法はないものか!!!

宇宙と連続している地上

4caa6fc2.jpg 先ほど、望遠鏡をもって職場近くの山に行って来た。天文に詳しい同僚に誘われて。

 さて、家で食事をしたあと車を運転し一時間半ほどかけて職場近くの山に行って来た。今年の夏に購入した望遠鏡を持ってだ。今年の夏は、なぜかスッキリしない夜空が多く、今日が望遠鏡の本格デビューだ。
 
 先についていた同僚(詳しくは職場は違うが・・・)がお勧めしてくれたM13という球状星団を見た(写真:ハッブル望遠鏡の画像をGoogleEarth)。
 毎度のことながら宇宙は、理解しようと思っても理解できないくらい奥深い。このM13という星団、どうやら10万個近くの星からなっているらしい。つまり10万個の太陽が密集しているということ。まず、太陽と同じような星が10万個もあるということが、僕の中枢神経を破壊する。この10万個の星にそれぞれ惑星があって・・・、衛星があって・・・。考えるだけでも魅力的な話だ。生きること、幸・不幸、仕事のプレッシャー、日本の政治、国際紛争・・・。銀河系の中のあるちっぽけな星団でさえ10万個の星を抱えていることを考えれば、自分の悩み、日本の悩み、地球の悩みなんて、宇宙の営みからみれば鼻くそにもならない性(しょう)も無いことだ。そんなことで一喜一憂するなんてちっぽけな話。宇宙にはもっと面白い話がいっぱいある。そういう妄想力を発揮できることが、天文の魅力だ。

 結局、晴れ間はほんの10分くらいしかでてこなかった。しかし、同僚に帰りに、近辺の星空スポットを案内してもらった。いろんな魅力的な場所があった。なかでもある場所にいったとき、思わず卒倒しそうになった。といういのは、その場所が宇宙と地球が連続しており、その間に確かにいると実感できる場所だったからだ。

 少なくて180度は視界が開けた山の中、山の上だけあって、見下ろす街並みもあれば、見上げる夜空もある。そこから回りを見渡すと、いま自分がみている眼下の街並みと、尽きること無い夜空との間に自分が確かに確かに存在していると・・・。この妄想加減、とても心地よい。

モンゴル

 数年前、日ごろの問題意識から商品を開発した。
 
 2年前、その商品を開発する会社が設立され、小さいながらも私はその会社の株主になった。今日、その会社の株主総会が名古屋であった。

 その会社の役員のFさんは私にKO大学のF先生を紹介してくれた人だ。株主総会後、Fさんと食事にいった(私は一日二食なのでコーヒーで食事につきあったが)。

 Fさん、今年の夏にKO大学のF先生とその学生さんらとモンゴルの大平原に調査に出かけている。今日、そのモンゴルの話をFさんから聞いた。私はあまり旅行には興味がなく、結果的に海外や国内をあちこちいっているようにみえるが、実はそれらは全て仕事。つまり目的が別にあっての移動だ。旅行という目的で、外に出ることはめったにない。自分が旅行や遊んでいる間に、「仮想ライバル」が自己研鑽していると思うと、とても遊んでいる気分になれないからだ。だから、単にモンゴルと聞いても、そんなものはテレビで想像つく世界。そう思っていた。ヒマラヤの場合は違っていた。死ぬ確立が高いと分かっていながら、登山家を惹きつけて止まないエベレストとはいったいどんなものかを知りたかったから、生きている間にいつかはエベレストをこの目で見てみたいという衝動があった。だから、たとえ困難が待ち受けてもヒマラヤに足を運んでみたいと思っていた。しかし、モンゴルはちがう。興味がなかった。

 ところがFさんの話を聞いてちょっと気持ちが変わった。Fさんの話は、例えば、2日間草原の中をソ連製のジープで移動してやっと目的場所に着いた、だとか、見渡す限り360度草原の中にぽつんと一つ存在するパオで生活した、だとか、さばいたばかりの羊の肉の塩茹ではこれまで食べた肉のどんなモノよりもうまかった、だとか・・・。そんな話で始まった。しかし、私は「想定内」と思い、行きたいという衝動にはかられなかった。ところが、この話でメキメキモンゴルが魅力的な場所になった。というのはこうだ。360度の平原の真っ只中、草原にはハーブの風が吹くという話だ。見渡す限りの草原はハーブで成り立っている。したがって、風が吹くとハーブの匂いが・・・。それはテレビだけの情報では想像できない。どんな感じなんだろう。興味がわく。

 またFさん、そんな光景にでくわしたため、日本に帰ってからモンゴル好きだった司馬遼太郎の本を再度読み返した見た。すると司馬遼太郎もモンゴルの平原についてハーブの香りがするという記述を残しているだ。

うーん、俄然興味がわいてきた。モンゴルという国。なにか仕事がそこにないかなぁ~などと思い出はじめた。今日の株主総会のあとの出来事。

新車点検

購入したバイクも今日で1000キロを向かえる。千キロ点検だ。そこで、今日名古屋に行ったついでにバイクの点検に出してきた。

前回の給油から今回の給油までの間の燃費は
38.6km/l(979.8km 4.71リットル給油)
だった。数日前の小牧(国道155号線はとまったり発進したりが多かった)、今日の名古屋と燃費が伸びないかと思ったがまぁまぁだ。