自分にすみよい国にしたい。な~んて思うのはやめにして、「俺はこうなれば」と思うけれど「みんなの世の中だから決めるのは皆で話し合って」。ただ、求められれば「個人的な意見は主張する」。けれど決まったことに対しては、文句は言わない。いやなら、そこを立ち去る。そんな気持ちで職場も日本との距離を持っている、つもり・・・。
だから、政治がどうなるかは大きな関心事。そんな中、突然の首相辞任。かなりビックリした。世のマスコミは福田総理を評価していないけど、というより、面白がって評価しないようにしているように見える。私はがんばっているからこそ、そして自分が彼の情熱と頑張りほど政治のことを考えるのに精力を使えないから、情熱とがんばりをしている彼に、右に左にどうなるにしろ自分の運命を託したい。そんな気持ちだ。肝炎のも問題のときの電光石火の決断などは、ちょっと惚れ惚れした。しかし、マスコミは評価できることはすぐに忘れてしまう。
いやー、残念だ。
辞任の記者会見を聞いた。またそれの解釈をしているニュースも見た。けれど報道されているのと、真相は違うと思う。ちょっとだけ、妄想力を披露したい。
マスコミなどの作為的な世論と自民党内での多様性のため、首相のリーダーシップを発揮できないようになっている。支持率も低迷。そこに来て問題は、公明党の位置づけ。公明党は自民党と民主党との間に立つように、自民党と距離をおこうとしたいる。それが、最近の公明党の国会運営や補正予算の出かた。勝手な解釈をすると、日本の長期的視点での発言というより、ポスト福田政権で公明党の立場を優位にすすめる党運営本位の発想ではないだろうか(と勝手に思っている)。
一方、民主党。党内選挙で盛り上がっている。また、政権をとることが目標(に私には映る)。だから、自民等のやることにはことごとく意を唱える。
となると、福田政権をつづけても、重要法案の審議は進まない。しかも、危機をむかえる自民党では、それを救うのは自分の考え方だと、各人の個性を主張する。となるとますます、まとまらなくなる。民主と自民、自民と公明、自民内部。いま閉塞感に満ちている。なにをどうしても右肩下がりだ。これを建て直し、状況を改善するためには「なにかが」変わらなければいけない。民主VS自民。改善の余地はない。自民内部。これも難しい。となると改善できるのは自民VS公明との関係だ。公明党の行動原理は乗り遅れない(にうつる)。いま自民党の支持率がさがっているからこそ、自民との共倒れをさけて自民から故意に離れる。首相の支持率の低迷はマスコミの操作で望むべくもない。
となると、公明党がもどってくるには、自民党の支持率、内閣支持率をあげるしかない。そんな中、最近麻生が表舞台にでてきた。彼には内閣支持率回復の潜在力があるかもしれない。そこで、福田⇒麻生のラインで世論を引き戻し、公明党を引き戻し、安定した政権を築くためには、自分が身を引くしかないと決断したのだと思う。
アメリカの大統領選挙をみていると、アメリカ的民主主義に失望する。本質はかわらなくても演出をかえるだけで票が、右に左に。そんな大国の口癖は「国益第一優先」。世界の経済を揺さぶる。アメリカ人のお祭りイベントで世界は右往左往させられる。たまったものではない。
大事なことは、長期的展望じゃぁないだろうか。どう考えても、景気がわるいからといって大規模な補正予算、しかも財源は国債。淘汰されるモノが、淘汰されない施策をうてば結論は先延ばしになるばかりか、負の遺産が増えるばかり。そう思う。空間的にも時間的にも日本を鳥瞰した施策をうつには、安定した方針・哲学が必要なのではないかなぁ。絶対の判断力などこの世にあっても、現世にいきる人間は分かりはしないだろう。だから誰の方針・哲学が一番よいかなんてことは、政治には関係ないと考えている。「信じるに足る人」「誠実な人」これが重要なんだろうと思う。一生懸命に作ったということが実感できれば、味がまずくてもおいしく感謝して料理を食べられるように、信じるに足るかどうかが、托せるかどうかの判断基準(私は)。
それにつけてもいつも不愉快に思うのは、小沢だ。以前、小沢は選挙にまけたら政局から引退するといった。そして、公言どおり引退した。ところが、請われて出てきた。引退するといって、そのケジメをつけずにまた舞い戻ってデカイ口をたたくのは、いかがなものか。その態度が政治不信を僕にいだかせる。人間として信用できない。たしかに、戦略と戦術には長けているが、そもそもその戦争は仕掛けるに値するのかで(?)で疑問が残るし、信用できない人に国政を託すのはどうかと・・・。
というようなことを感じている。
政治はずぶの素人なので、詳しいことは理解できてはいないが、辞任の驚きのあまり思ったことを文章にしてみた。
とにかく驚いた。ビックリした。