京都御所

御所地図 大学時代、私の話の「わかりにくさを」指導教官は、たとえ話をつかって説明した。たとえ話は、「道順の説明」だ。京都出身であるその指導教官は、京都の地図はわかりやすい「東西、南北に碁盤の目のようになった道があり、○○といわれたときに大体場所の検討がつく。しかし、名古屋はどうだ、同じ道がそのうち別の名前になるし、南に下っていたかと思えば、道が西に曲がっていたりと、これじゃぁわからん」といってよく、私の話を名古屋の地図にたとえて説明のまずさ・論理のまずさを指摘した。そんな苦い思い出が染み付いているために、京都の地図はわかりやすい(はずだ)と思い込んでいる私には地図など必要ない(と思っている)。なぜなら、出発前、インターネットで宿と御所・二条城の位置関係を把握したら、あとはなんとかなるだろう、そう安心しきっているからだ。というわけで、「ゲストハウス」をでて、およそ4,5キロと思う道のりを、散歩がてらに西南西の方向に歩き出した。ときどき、インターネット地図で把握した大通り、鴨川などに出合いながら自分が道を間違っていないことを確認しつつ、朝の京都を歩きつづけた。

あった。京都御所だ。

京都御所を見ておきたいモチベーションは「篤姫」の影響だ。和宮が江戸にいくことを嫌い、京都をいつまでも懐かしんだという話を原作でよんだ。そのため私には「都はそんなにいいとこなのか」という疑問があった。そのため、和宮が育った「御所」の雰囲気を感じたいと思ったからだ。もうひとつのモチベーションは、漫画「おーい、竜馬」、司馬遼太郎の「竜馬が行く」など、その他幕末ものの本を読んでいると、長州が天皇を拉致しよう(幕府から救い出そう)と御所に攻め入った「蛤御門の変」で、長州が蛤御門に砲撃をし、御所の公家集は恐れおののいた、というようなことが書いてある。・・・が、私はその感覚がいまいちピントこなかった。江戸城にも何々門というのはいろいろあるが、本丸からえらく離れたところにある門もある。蛤御門だって、御所のえらく遠くの門だろう。だいたい、御所の間近にそう簡単に大砲をもった部隊が近づけるわけなかろう。そう思っていたので、読んだ本にでている表現は「え~、誇張じゃぁないのぉ」と思っていた。だから、御所と蛤御門の位置関係を体で把握したかった。この2つのモチベーションが私を御所にいざなった。

水路 もちろん、御所がどんなものなのか、調べていってもいない行き当たりばったり。果たして、皇居のように核心がみえず、人々は遠巻きに塀をぐるりと回われるだけなのか・・・。よくわからないまま御所の北東角についた。その後、あてもなく塀をつたって歩いていたら、塀に「切れ目」があった。その切れ目から「御所」の内部に潜入する(京都人の散歩道で、犬を連れた人がずいぶんみた)。なるほど、これが御所か。背中から聞こえる京都の喧騒がだんだん、遠ざかっていき、やがて私が踏みしめる玉砂利の音に変わっていった。うーん、いいとこだなぁ、ここは・・・。そう感じた。整然として静寂で、空間の使われ方が伸びやかだ。私の妄想力がカチンとなった。

御所の塀にそって掘られた水路。おそらく300mくらいはあるだろう。その水路が一直線に、しかもまったいらな土地なのに、水がとどまることなく流れている。しかしよくもまぁ、機械もない時代に、盆地といえども森林を切り開き、大地を整地し、道をつくり、そこに都を置いた労力はすさまじいものだろう。しかも、このまっ平らに整地されたところにとどまることなく流れる水流をつくるとは・・・。
 目の前に、平安貴族を配置してみた。そこで、行きかう牛車。日本の中心の「都」の賑わい。目の前の景色に雪を降らせ、花を咲かせ、蝉を鳴かせ、ススキに鈴虫を配置してみた。うーん、枕草子・源氏物語。さらに時代は下って、幕末の志士や公家にも登場してもらった。勅旨をせがむ勤皇の志士に公家衆・・・。
 なるほど、これが都、雅なのかなぁ。そしてそんな歴史と同時並行で、誕生から成人していく「和宮」。ふーん、彼女が恋しいとおもっていた「都」はこんなとこなのねぇ~。私はタイムカプセルで現代に立ち戻り、我に帰ると、和宮の気持ちがちょっとわかったような気になった。

蛤御門 納得したのは、蛤御門の位置だ。こりゃぁ近い。きっと新庄・イチローの肩ならば、御所に石を投げ込める位置だ。これはびびるに違いない。やっと歴史の一こまを体で理解できた。・・・と同時に、中国や他の外国ならば王や皇帝が倒される(砲火をあびる)ことなどあたりまえだったこの地球において、これまで時代がいかに揺れようと、御所に砲弾が打ち込まれることがなかった日本の国民性の不思議にも想いが及ぶ・・・。ミステリアス・ジャパン。

弾痕 ちゃんとお約束の弾痕も御門にあった。

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