月別アーカイブ: 2008年10月

イケア

 土曜日神戸にいったついでに「イケア」というインテリアショップにいってきた。スウェーデンから上陸したこの巨大インテリアショップは、これまでのお店の概念を打ち破るものだった。

 まず、巨大であった。一階から入るが、商品は二階に上がらないと見れなく、しかも、二階から一階まで降りてこないと出れない。つまり、買おうが買おまいが、または目当てのおものがあろうが、なかろうが全ての商品の陳列をみないといけない仕組みになっている。

 また、家具屋にありがちな、家具をみているとスーッとやってくる店員もいない。客は入り口で紙と鉛筆をピックアップして、フロアーを回りながら、その紙に欲しいとおもったものの番号を書いていく。小物などは、大きなブルーシートのような安でのシートでできた袋にいれてフロアーをあるく。2Fから1Fと移動しレジの手前にくると、最後の空間である巨大倉庫通ることになる(天井まで10m以上はある)。客はここで紙に書いた番号の家具の在庫を取り上げ、台車に乗せてレジに進む。

 このイケアの家具はほとんどは自らが組み立てるタイプの家具だ。この店屋の宣伝によれば、お客が家具を自分で組み立てることでコストを抑えているのだそうだ。

 とまぁ、初めて体験した感じのショップだった。

 しかし、なぜスウェーデンだろう。・・・と思いつつ仮説を考えてみた。

 まず、状況証拠から。家具といってもわりとウッディーな家具だ。ツーバイフォーで使われるようなSPF材。たぶん、ホワイトウッドというものだろう。またスチールの家具もあったが、ブリキで薄い。しかし、木もスチールも見るからに貧相なつくりなのだ、これが・・・。クッションなどもワタが少ない。さいきん、テレビのインテリアの話でイケヤの店員がでてきて能書きをたれたりするので、「しっかりした」しかも「おしゃれ」かとおもっていた。後者のおしゃれかどうかは、好みの問題なので、おいておいたとしても、お世辞にもしっかりしたとは言いがたい。
 また、このインテリアショップには、レストラン(カフェテリア形式といっていた、どうやら自分で好きな食べ物をとって個別に清算するセルフサービス形式)やビストロ(この意味はよくわからない)もあり、しきりに「スウェーデン産」を強調していた。もちろん、スウェーデンの食材コーナーもある。

 以上の少ない情報からこう考えた。すごい間違った妄想力だとおもうが。

 まず、基本的にはスウェーデンを担ぐショップ。世界的な家具メーカーらしいこのイケアというブランドは、もしかしたら、結果的にはスウェーデンの林産加工品を売るのが至上命題(もしくはそこに目をつけて)で設立してきたという経緯があるのではないだろうか。そう思えた。(実際はちがうようだが・・・wiki イケアでしらべた)
 スウェーデンといえば、いま日本でも先方を先進林業国として研修にいっているくらいの林業国だ。しかし、丸太で売っているだけでは林業が儲かるわけがない。国として同じ一本の丸太から、より多くのお金を得るためには、「付加価値」のある家具でうったほうがいい。しかも、ちまちまと、家内制手工業ではなく大量生産の工場で・・・。ところが単に大量生産だと東南アジアや中国の家具と変わりばえなく国際競争力がない。そこで、「デザインがいい」という触れ込みで、単なる大量生産の国の製品以上の魅力を打ち出し・・・。国際社会にうってでてきた。そんな店ではないだろうか。
 モノがあまりいいものに見えなかった。デザインについては判らないが、日本で成功するのだろうか?数年もてばいいという大学生の下宿用の家具としてはちょうどいいが・・・。どんなものだろう。

 さてこの仮説が正しい(?)としたら、日本の林業業界にこれくらいのガッツと冒険をするものがいるだろうか。国もそんなやる気はないし、企業もそんな本腰をいれることはないだろなぁ・・・。

目からウロコ

 最近、「吟じます」ではじめるネタをやっているお笑い芸人がいる。それが面白いか、面白くないかはさておいて、私は彼に「感心している」。よく、お笑いと「詩吟」とを結び付けたなぁ・・・と。発想と、それの節でギャグに持ち込む構成力。ときどき、お笑い芸人の着想には感心している。他にも最近は「ナイツ」にも感心しているが・・・。とにかく、多くの芸人の発想には目を見張るものがある。
 そんな中でもとくに「吟じます」が私の注意を引くのは、その内容からではない。思わずあるCMを見ていると、そこでの挿入歌を聴きながら、思わず思い出し笑いをしてしまうからだ。そのCMとは「毎日コミュニケーション」の『マイナビ』で流れてくる「大塚愛」の『クラゲ、流れ星』という歌のサビの部分だ。

 「クラゲ、流れぼしぃ~い~。見つけられた らぁ~あ~あ~あ」

 の「らぁ~あ~あ~あ」の部分の音階が、まるで詩吟のギャグのサビに入る直前の節にそっくり、というか一緒なのだ。
 一方では、いい感じのバラードなのに、一方はギャグ。大塚愛は、詩吟のギャグにヒントを得てこの曲をつくったわけではないだろうに・・・。思わずCMを見るたびにあのギャグを思い出す。つまり、一日何回もCMを見るたびに「ギャグ」を思い出してしまうために、詩吟の芸人を思い出す。そして、ギャグと詩吟の調和した新しい世界に思いを馳せる。

 しかし、目からウロコとはその話ではない。
 
 昨日、車に乗っていた。ちょっと神戸にいってきたのだ。ラジオの選曲が違うこの地域。高速に乗りながら、手早くオートで地元(大阪)のラジオにチューニングをあわせていたときの出来事である。ラジオからは民謡が聞こえてきた。どうやら若手の民謡のコンクールの全国大会の様子のようだ。

 普通の人間が、民謡を聴く機会といえば、日曜日NHKの「昼の のど自慢」でたまたま聞くくらいなものだろう。これまでそれを聞いても「別世界の人種が歌う歌」として感心もなかったし、むしろ、そんな歌よりも他の歌・・・。そんな気持ちがあった。しかし、昨日、車に乗って「民謡」が流れたとき、私の民謡への「心のチューニング」がぴたりとあった。民謡はすばらしい、これから聴いてみたいと思ったのだ。それが目にウロコだった。

 理由を考えてみた。なぜ、ピタリと合ったのか。思い当たることがあった。それは、民謡の節を聞いていると、かつての日本の情景が脳裏に浮かぶからだ。山々に木魂す、かつての民衆の声。漁村に響く大漁を祝いながら網から魚をとっている情景と喜びにあふれた顔。もちろん、見たこともない景色、あったこともない時代の人々、想像の世界でしかないが、耳から景色が「見えた」のだ。

 大河ドラマや歴史小説、歴史の教科書で「昔の日本」を知ることはできる。しかし、そんな「書」に残る事実なんかは、日本の人口のほんの一握りの人に関係があった話であって、ほとんどの人間にとってみたら「別世界」の話だろう。私達は、「昔の日本」を知った気になっているが、それは、一部の為政者が残したものから、つまり、為政者が残した記録から組み立てた世界。
 そんな中、民謡をきくと、そこには「歌い継がれた」日本の情景と生活が織り込まれている。そんな気が、突然昨日したのだ。目からウロコが落ちた思いだ。これからときに振れて民謡を聴いてみようと思う。手元に人からもらった「三味線」もあるし・・・。おっと、まずは聞くことだけをはじめてみよう。そう思った。
 

 まさかと思うが、民謡にチューニングがあってしまったのは、最近のCMで詩吟に対する心構えが出来ていたせいか!?

 たぶん、ヒマラヤにいって「素の人間として生きる」人々の生活と、電気や水道、車のない社会を見たためだと思うが・・・。

自己診断

camera2 最近ブログに写真が少ないが、それはデジカメが壊れたからだ。もちろん、キャノンの一眼レフは健在だが、重いから持ち歩くわけにはいかない。
 8月上旬からメインで使っていた防水デジカメが壊れた。そこで、ブログ用にと、もう一つ壊れていた軽いデジカメを修理に出そうとしたら、まず1万円かかります、実際はそれ以上です。そう言われた。オークション買えば3千円以下・・・。

 さて、そんなことはどうでもいいことだが、やっと9月19日のブログで悩んでいた「ニュー・ヘルメット」を調達した。あのとき、顔全体を覆うフルフェイスにしようか、顎がでているジェットタイプにしようか悩んでいた。ファッション的にはジェットだが、先日こけたとき、顔面をアスファルトでうったことを考えるとフルフェイス。1/10000の確立を照準にしmetてヘルメットを決めるか、それとも9999/10000をベースにするか・・・。臆病に生きるか、それとも大胆に生きるか、恥ずかしながら1月半なやんだ。

 その結果、私は臆病にいきることにした。フルフェイスを買うことにしたからだ。もちろん、インターネットオークションで。店頭で買うよりも6千円安く買えた。ちなみにいままでつかっていたヘルメットはホームセンターで購入した4千円くらいのものだ。

 さっそく今晩、ニューヘルメットを被って無意味に近所を子供のように走り回ってきた。その結果、驚いた。フルフェイスだからなのか、値段が10倍近くするからなのか、いままで被っていたジェットタイプのヘルメットと比べて恐ろしいほど、運転しているとき静かだ。風きり音がほとんどしない。いままでのジェットだと60キロ超えると「ぴゅ―ぴゅ―」いうが、今回は静かなエンジン音だけなのだ。もちろん、街の音は聞こえる。

 バイクの視界が開けてきた。もしかしたら、高速も恐怖なく運転できるかも。おっと、そう思っちゃーいけないんだよなぁ~。恐怖心が安全を運んでくるんだから、恐怖心がなくなったからといって危険な領域に踏み込んではいけない、いけない。

 自己診断。私は臆病ものである。

スーパーレジ袋

 最近、スーパーのレジ袋が近所でも有料になってきた。マスコミでもこのスーパーのレジ袋は「エコの大敵」といわんばかりの取り上げようだ。やれ、マイ箸だ、やれマイバックだ・・・。とかく世間は騒がしい。あほらしい。もちろん、私は自己意識として「マイバック」というか「買い物籠」を竹で編んで、それを使いたいと思っている。個人的には賛成だ。しかし、人に「マイバックを持たないのは悪の権化」のような取り上げ方をして、さも「大事なこと」とばかりに取り上げるマスコミや各種団体には気分が悪い。

 昔こんなことがあった。日本では「ナタデココ」のブームがあった。そのブームを作る世間の仕掛けによって、日本のナタデココ消費量は激増。そのため、フィリピンではナタデココを作るためのココナッツ畑が急激に増加。これまで自給食物をつくる畑が、一攫千金を夢見て借金をして作られた。しかし、ブームが去って残ったものは、負債。現地の社会は混乱した。そんなことがあった。そんな中、ナタデココは当初「ファッション」のように華々しく取り上げられ、ブームがさった今では「悲劇」として語られる。私はラジオでナタデココの仕掛け人の女性のコメントを聞いたことがある。泣きそうな状態で「・・・そんなことになるなんて・・・」。しかし、考えれば想像はつくこと。

 さて、レジ袋。世の中でどれだけのレジ袋が消費されているのか。たしかに、ごみになるだけなので、資源は無駄だ。しかし、気になるのはそれだけの量が消費されるということは、それを「飯のネタ」にしている会社があり、会社があるということは、そこには従業員がいて、その従業員の家族がいるということだ。突然、レジ袋を「やめよう」と運動をして、突如として受注量が減ったとき、その会社やその家族はどうなるのだろう。しかし、それを取材しているマスコミは見たことがない。

 自分が実現したい世の中を達成するために、個人的に「気づき」「努力する」。それはいい。けれど、自分のしたいことを実現するために「あおって」「強要」するのはいかがなものか。ある方面の人はそれを環境教育だといって言っているが、もしも、それが環境教育だというなら、ないほうがいい。それは宗教だ。一部の環境教育には宗教のような匂いを感じないでもないが・・・。

 地球上に自分ひとりが生きているなら、好きなように、思うようにすればいい。地球上がすべて仲良しクラブで結ばれているなら、仲良くやればいい。けれど、世間は多様である。自分が「悪い」と分かっていても「受け入れなければならない」こともたまにはある。また急激な変化ではなく、緩やかな変化にしなければならないときがある。一人が最大の便宜をえるのが社会のあり方だとは思わない。皆が不便を少しづつ受入ながら次の時代の最大公約数の便宜を得るために我慢することが必要なときもある。ところが、世間の方法は「あおって」「強要」のスローガン。

 レジ袋に関してなら、資源の無駄とはわかっているので、それに気づけば「マイバック」。でも、マイバックの労力を払えない人も多い。それならば、レジ袋に依存して生活している人の調査をし、問題なければ有料化。問題がありそうならば、レジ袋にかわる代替商品の開発をその会社にさせる(行政的な助成)とか、経営的にレジ袋がなくなってもいいように会社の業態が変わるよう導入をしてから有料化(強要)。そういう配慮が必要だと思う。
 自然に優しくなろうと言うやつは、そのまえに、自分と違う立場の他人に優しくなければいけない。他人に優しくないエコなんて、そんなものはないほうがいい。最近、レジ袋の有料化が始まったのをまのあたりにして、そう思う。

空・陸・水

61c61ee1.jpg このところ思うところがある。目でもGRASSでもない。他にもあるのだ。それはヒマラヤでの思いから発している。

 ヒマラヤでのミッションの一つに、湖の水深を測るという仕事があった。そんなことはしたこともない私は、3ヶ月くらいで、そのための道具を入手し、ツケ刃の練習をしてヒマラヤに望んだ。結局、氷河湖は凍っており、設備一式をもっていったものの、ほとんど使うことなく、魚群探知機以外は現地において帰った。いま手元に担当者として魚群探知機がある。

 実は、測深という技術には、ちゃんと測量できるのだろうか、自分でもかなりどきどきしていた。理由は、機械の操作、データ処理、そして何よりも「果たして見渡す限りのあの湖を測深するのに、どれだけの時間がかかるのか」よく分からなかった(もちろん、机上では計算しているし、現場で困ったときの対処もシュミレーションはしていた)。さらに、開けたところの湖や海とちがい、GPSを搭載した魚群探知機では、湖の縁にそそり立つモレーンとよばれる50m近くの崖のおかげで、とても正しいデータが取れるようには感じなかったからだ。ヒマラヤから帰ってからもう4ヶ月経つ。いまも「あれは、どうしたらいいのだろう」そんなことを時折思っていた。

 そこで、せっかく魚群探知機があるのだ。また船を浮かべるのも嫌いではない。また、船外機をつけて三河湾の島巡りでもしつつ、水深測量の専門技術を身につけてみよう。そう思うようになった。もちろん、これは職務ではない。自分の商品価値を高めるための投資だ。新品を購入する財力はないが、インターネットオークションで中古の船を買ってしまおう。そう思って、先日、インターネットオークションで競り落としてたものが今日職場に届いた。ちかぢか、電動の船外機を物色してみようと思う。

 さて、それで何をやりたいのか?ヒマラヤにもう一度行きたいのか?いや違う。純粋な興味に加え、これから、誰かがこの技術を必要とすると思っているからだ。そこで、現在、1.5歩先に行っている中途半端の技術を完全なものにし、「誰かに伝える」または「必要とされたときに手足を動かし貢献」したいのだ。皆がぶち当たる問題を先に解決し、道筋をつけたいのだ。そうすれば、ネパールで、ブータンで、アルゼンチンで、ヨーロッパアルプスで・・・。お役に立つ日がくるかもしれない。ただ、世界情勢をみると日本が担うのは「アジア」になると思うが・・・。
 
 というわけで、これから折をみてこの技術をものにしたいと思う。その過程で、これから意図せず魚が食卓にあがる頻度が多くなるかもしれない。また、三河湾の大アサリのBBQでどこかの無人島で酔っ払っているかもしれない。

 これまで空や宇宙からの測量や地面の測量をやってきたが、これで水の測量を身につければ「空・陸・水」のオールラウンダーとしてのデビューもありえる。

忘れないことへの感謝(似非サムライのたわごと)

 その仕事へのひた向きさから、先日、「サムライ」といわれた。JICAの研修でのことだ。確かに、サムライが理想とするものを自分の理想としないでもない・・・。士は己を知る者の為に死すだとか・・・。さて、何でそうなるのだろう。自分でも良く分からなかったが、今日、テレビを見ながら思い当たるところがあった。

 1995年の3月のある日曜日、当時名古屋に住んでいた私は、実家に帰っていた。理由は、もうじきアメリカに数ヶ月出張する兄の壮行会をするためだ。伯父も一緒だ。兄が購入してまだ一年も経っていないパジェロは5人乗り。今日の参加は全部で6人。子供の頃から兄と仲があまりよくなかった私は、いいよ、いいよ、とパジェロに3列目のシートを作り居心地わるく座っていた。(ちなみに、そのことがある数ヶ月前からあることに気づき、兄の存在にとても敬意を表し、唯一無二の存在として感謝の気持ちをいだいていた。もちろん、直接つたえるメンタリティーをもっていなかったが、とにかく、兄にかけた迷惑をなんとか償いたいと思っていた)。そのときの道中、カーラジオからは大黒マキの『ラララ』が流れていた。その約二ヵ月後、異国で兄は帰らぬ人となった。1995年のゴールデンウィークのことである。

 今日、家に帰りテレビをつけたら「懐メロ」がやっていた。4時間番組だ。小学生・中学生・高校生のときの情景が思い出され、おもわず、仕事もせずにそのまま聞き入ってしまった。そしてあるとき、「テレサテン」がでてきた。映像は1986年。私が大学1年生(たぶん)のときの映像だ。
 テレサテンの映像を見た瞬間、頭は自然に演算をしていた。テレサテンは1995年5月になくなった。忘れもしない。なぜなら、私がそのことを知ったのは兄の葬儀に出席するために乗っていた飛行機の中でのことだからだ。兄が死んでしまった2日後、テレサテンは亡くなっている。
 映像中の彼女はとても元気だ。しかし、あと9年しか命がないだなんて、誰が知っていようか。とても元気な姿の彼女。とても後9年でお迎えがくるとは・・・。
 テレサテンの映像を見て以来、1995年を境にして、「これは兄貴も知っている曲だ」「これは兄は聞いたことがない曲だ」。そんなふうに、テレビを見るようになった。
 そうしていると、兄貴の日本での葬儀のときのお袋の言葉がよみがえってきた。「泰之ももっと生きたかったろうにぃ・・・」というため息の中で発せられた言葉だ。その言葉、ときどき、日々の生活でもよみがえる。鮮明に・・・。そしてその言葉が頭に響くたび、「兄貴の分も太く生きてみよう」という元気が沸いてくる。たぶん、太く生きようとするとき、私には2人分のエネルギーが沸いてくるのだと思う。それが、私を「サムライ」のようにするのでは・・・。

 さて、ときおり街角から「ラララ」が流れてくると、家族での食事会での往路のパジェロの3列目のシートを思い出し、元気な兄貴を思い出す。「記憶」これは私の体脂肪を燃やす最高の触媒のようだ。
 
 しかし、不思議だ!エネルギーは2人分なのにぃ、食事は一日2食で、2膳だけ・・・。どうなっとるんだこの体。

GIS秋の陣

750b86ad.jpg さて、秋の陣で存分に戦うためには、気が散る要素を取り除く以外にもう一つ私にとって重要なことがある。それはイスだ。オークションで12000円で落札した中古のイスが今日やってきた。

 そのイスと最初にであったのは、いまから10年前。私がKO大学に一年間常駐したときのことだ。KO大学のその研究室は、最新設備がととのった情報処理施設の塔という感じの場所。もちろん、オフィスは近未来的。そんなオフィスで一年過ごした。そのオフィスはいまの私にいろんなものをもたらせてくれた。技術や知識は於いておいて、机とイスの大切さを思い知らせてくれたのだ。朝から深夜までそのオフィスに張り付いて毎日過ごした。もちろん、その間コンピュータを前にだ。しかし驚いたことに、KO大学のイスはどれだけ座っていても疲れない。どこも痛くもならない。すばらしいイスだった。この世に、こんなイスがあるのを初めて体験した瞬間だった。

 スイスのGeroflex社のイス。Geroflex33というモデルだ。それ以来、今の職場にきても学校からあてがわれるイスを拒否して、自前でGeroflex33を購入した。職場と家用に2脚購入した。一脚、4・5万のものであった。確かにその価値はある。その後、いまのオフィスではさらにすぐれたイスを購入したが、いまでもGeroflex33はお気に入りだ。しかし、気軽に買える金額ではない。だからオークション。

 今日、そのイスが来た。さて、準備は出来た。GIS秋の陣へ出陣だ。

もち キビ

 土曜日に収穫したとうもろこし。虫くいもたくさんあったが、先ほど全部食べた。とうもろこしを食べている虫である。虫だってとうもろこしの一部になっているだろう。だから、虫の食いかけだろうがかまうものか。小ぶりのとうもろこし。このもちきび。種をもらったとき、「もちもちしているとうもろこし」といって種をもらった。食べてみると実感。たしかに、もちもち、というか、ねちねちというか・・・。とうもろこしにしては始めての食感。スイートコーンとはちがって、甘くはないが、カムほどに甘みが増す。うまいとうもろこしだった。
 種は、まだある。来年こそはまともな収穫ができるように勉強するぞ!

GIS秋の陣

office2 この夏のGRASSソフトウェア操作習得。その後、目の保養(といっても水着の女性を見ているというわけではない。ピップエレキバンによる保養)。そしてそろそろ秋の陣立てを考えなければならない。

 もう半年以上、6時くらいに職場をでることにしている。昔は、深夜12時や1時に帰宅することだってざらだった。しかし、今は早い。理由は一日二食で、朝ご飯を一膳食べるだけだから腹が減るのだ・・・。それでたまらず帰る。ところが、そうも言っていられない。どうせ飯を食えば眠くなり、酒なんか飲んじまえばさらに眠くなり、研究に打ち込む時間がなくなるからだ。となると、職場で頑張って研究の時間をつくらねば。

 そこで今日はこれからの時間の使い方をうまく行えるよう、職場での研究環境をつくってきた。昨年のクリスマスのころオフィスの掃除をしたが、それ以来あまり手を入れることがなかったが、今日はコンピュータとハードディスクの整理をした。いつの間にか、こんなにハードディスクが増えてしまった。およそ4テラバイトある・・・。電源管理やパソコンとの接続もややっこしい。ちかぢか、それらの中身をもっと整理することにしよう。
 さて、GIS先の陣、そろそろ出陣の時である。

夏の最後の収穫

きびもち秋が深まり、バイクにのっていると町のあちこちできんもくせいの香りにであうことがある。もう秋も盛りになってきた。

 夏の野菜、トウモロコシももう季節は限界だろう。そこで、夏の嵐や虫などいろいろあったが、今日をトウモロコシの最終日とした。もちキビ と 紫色のトウモロコシの収穫だ。正直、実際のものをみたことがないので、どれが「正解」のサイズなのかわからないが・・・。とりあえず収穫してみた。無農薬のせいか虫がついたり、栄養が足らないせいか実になっていなかったりした。これを食べるか来年のための種にするのか考えている。
以前の甘くないコーンについては、実家で作ったコーンを食べたときは「うまくなかったが」、自分で作ったコーン(おそらく採るタイミングがよかったのだとおもうが)は豆の硬さ・味がして、食べれた率は20%程度しかなかったが、まぁよかったと思える状態だった。さて、このもちキビはどうだろう。来年の種については、まだ今年の種が残っているので、食べちまおうか・・・。

にんじん また、畑の人参の間引きがてら収穫をしてきた。人参はビタミン豊富で目にもいいと聞く。