話は前後するが、年末年始、宣言したように乗鞍・上高地に行ってきた。目的は「温泉」「冬の上高地」「6年ぶりのスキー」だ。
夏の上高地は言わずとしれた観光地。多くの人が訪れる。私がそこに始めて足を踏み入れたのは高校一年のときの林間学校だ。私が卒業した高校は修学旅行が2年で全員参加。一年には「キャンプ」か「スキー」を選択する。もちろん、2つ行ってもいいし、どちらもいかないでもいい。当時の私はスキーやテニスなんていうのは軟派な男のすることだっ!と決め付けて、問答無用、興味もなかった。一方、キャンプにも特に興味があったわけではないが、なんとなく、キャンプを選択して行かせてもらった。
そのときの上高地の印象は、その後の山人生に大きな影響を与えたと思う。あの時は天気が悪く、小雨+霧。本当なら綺麗に見える穂高の山々。唐沢カール。しかし、何も見えない。いまから思えば、ウィンダムヒルズオーケストラのジョージ・ウィンストンのピアノが流れてくるような静寂に魅了された。もちろん、一大観光地、人は多い。しかし、人をかき消すような霧。暑い夏に涼しい別天地。初めて体験する空気・・・。
自分で車を運転するようになってからは、おそらく機会を見つけて出かけていた。
また、91年サラリーマンになって東京で働いていたときは、実家に帰らず、本とテントを持って3日間、上高地で一人キャンプをしながら本を読んですごした。
とにかく、私は上高地が好きだ!
そんな上高地。まさか冬に簡単にいけるなどとは思っていなかった。大学の山岳部のOB達に5月の上高地に誘われたことがあるが、そのときは都合がつかずいけなかった。頭の中で、山岳部クラスの人たちのみが冬の上高地にアクセスできると。
ところが、4・5年前、知り合いの野外活動を商売にしている会社が冬の上高地スノーシューズツアーをやり始めた。なにぃ!これは行くしかない。そして念願かなって彼らのツアーに参加した。
なんのことはない、スノーシューズという欧米の「かんじき」をはいて新雪の上を歩く。それだけのことだ。しかし、これがなかなか楽しいのだ。先シーズン、ホワイトアウトナビゲーションということで標高2600mまで乗鞍岳に厳冬期上った。一緒にいったメンバーが頬を凍傷にかかったくらいのところだ。それくらいの厳しいところでも、スノーシューズの裏についた鉄の爪が滑り止めになって雪でも氷でも歩ける。
そんなスノーシューズをはいて上高地の中を歩き、適当な場所で休憩しながら景色や雪を堪能する。参加しながら感慨深いのだが、たったそれだけのことで、自分を含め「お金を出してまで体験したい」と思う人が増えてきた。
道具(私は自前だが、レンタルもある)と案内人がいたら、素人でも冬の上高地にアクセスできる。そんな時代になった。
確かに、楽しいイベントだった。しかし、私の中では少々不完全燃焼だった。達成感がなかいからなのか、それとも夏の上高地のように別天地の感がないからなのか。夏の上高地は暑い平野で暮らす私には信じられない「別天地」。だから私に価値がある。景色もそうだが、まずその生活圏との乖離がすばらしい。ところが冬の上高地は、雪景色。この冬景色にどうして自分はグッと来なかったのだろう。考えてみた。
上高地の夏の涼しさは「快」である。一方、夏の暑さが「快」でないように(もっとも私には快だが)、冬の寒さは「快」ではなく「不快」だ。冬の寒いときに寒いところに行ってグラッとくるのは、おそらくよっぽどの好き者ではないだろうか。私はそこまで好き者ではない。冬は暖かい海に、私が夏に感じる上高地の別天地を実感するのだと思う。だから冬の上高地には別天地という感覚をもてなかった。だから今回は上高地の景観と冬の寒さ、別天地具合を算術演算したら、少々プラスになったに過ぎなかったのだと思う。
しかし、状況はわかった。これなら一人でも行けそうだ。冬の上高地はそんなところだった。