謝恩かい?

 ウナルなぁ。卒論の進み具合もそうだが、またあの季節だ。「謝恩会」などという不思議な会のご案内がやってきた。

 謝恩とは恩に感謝するということか?

 学生が教員に対して「謝恩会」を設定してくれる。毎年、毎年、ご案内がくるし、年々大げさになってくる。そして私は毎度毎度、コソコソとその場を避けて雲隠れする。理由は、そもそも謝恩される意味が解せないからだ。

 教育は仕事でやっている。だから仕事に対しての対価は得ている。学生は対価を払って勉強をしている。教育とはそれだけの話ではないか。仕事以上のことを学生にすれば、つまり対価以上のことをすれば、それは恩にきられる義理もあろうが、どれだけ学生に時間を投入しようが、私の中では「範囲内」。恩にきられる義理はない。

 さて、自分が学生のときはどうだったか。あの人いまごろどうしているかなぁと思い出す人もいれば、自分のDNAの一部にまで入り込んでいる人もいる。すべての出会いのおかげで、今の自分がいる。出会ったすべての先生たちに感謝の気持ちは絶えない。けれど、謝恩会などを企画しようなどということは思ったことがない。理由がある。

 もちろん、恩を感じる人がいる。自分の考え方の一部になるほど影響がある人々だ。しかしその恩は、恩を感じるキッカケになった方向性で「成功」することが、最大の恩返しだと思っている。だから謝恩会を開いて「ありがとう」といった次の日からキッパリわすれて歩き出すような、メンタリティーは僕にはない。かわりに、卒業後も常に「頭の中」にあり、「この場合、あの人だったらどうするか」と自問自答の材料にする。卒業してからといって縁は切れていないのだし、切るつもりもない。

 ただ、日々その方向性を精進する。
 
 おそらく、孔子がいった「立身行道、揚名於後世、以顯父母、孝之終也」というのに近い。私はそれを目指したい。これが私の恩の返し方だ。

恩を感じることがあるなら、学生さんたちには、そんなイベントなんかで、ごまかしてほしくない。教員を眼下にして、近づけないくらい活躍する人になってもらいたい。
 一方、恩はあまり感じないがイベントです、ということなら、そんなことにお付き合いしている時間はない。
 
などということで、ノウノウとこんな能書きをたれれば角が立つので、雲隠れするしかない。謝恩会の誘いはまことに苦手だ。

 

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