月別アーカイブ: 2009年3月

外交

例のCGの件でずいぶん苦労している。
月曜日は衛生画像で植生の研究をしている方を尋ねた。筑波宇宙センターの方だ。自分が不勉強だということを実感したのと、CB大学が大きな予算で組織的に私のようなことをしていることも聞いた。詳細はことなるので、私の意義は揺らぐものではないが、個人でやっていることと「知識」と「マンパワー」でせめている彼らには太刀打ちできない。しかし、宇宙センターの方と話してみて「どんな観点」で話せばより他分野の人に正確に伝わるかが分かった。筑波は、「自分が不勉強であることの認識」「異分野の最前線」「焦点の絞り方・伝え方」について大きな得るものがあった。

今日は大垣にいってきた。ここにはうちの職場のような県立の専門学校がある。情報処理・芸術が専門だ。ここにCGを専門にしている先生がいることをホームページで知った。そこで、昨日、突然電話し、アポをとり訪問した。いままであった人の中で最も異分野の方だ。以前から気になっていたが、試行錯誤するまえに、「教えてください」というのは私のスタイルではない。対等に話せるために「努力のあと」が必要だと考え、これまで訪問を控えていたが、いくつか試行錯誤の努力のあとがたまったので、今日の訪問となった。

おそらく、正確に私のやりたいことが伝わらなかったのだとおもう。非常に重要なアドバイスをいくつももらったが、なんだかピントがちがっていたように思う。しかし、それを考えても余りある成果があった。

1 コンピュータで映画をつくるばあいは、レンダリングファームという設備をつかっている。通常3000台(すくなくとも1000台)のコンピュータで処理を進めている。映画の1秒に15カット使うとしたら、3000台のコンピュータなら、100秒の映像ができる。これなら一枚に1月かかっても、映画づくりは進められる。しかし、この次元のことをするなら、個人ベースではできることではない・・・。さらには、私のCGはどうも、スーパーコンピュータで解決できるとかいう次元でもなさそうだ。

2 リアルだということと、リアルっぽくみえるというのは別ものだ。CGの場合、リアルの一歩、つまりモデリングを細密にやったものは、不自然であることがおおい。リアルに見えればいいというのなら、簡略化したもののほうがリアルっぽい。非常に含蓄のある言葉だ・・・。

これまでのことを総合すると、これからの切り口・焦点の絞り方などとても重要な方針が見えてくると思う。この美濃の地にいると、だれも喋るひとがいないが、こうして足を動かせば、なにか見えてくる。今週の金曜日は先週の金曜日に話をきいた方に会いに九州は福岡にいく!
ちょっといままでの試行錯誤をもとに、論文になるような絞り込みを考えねば。

驚きの少年

昨日、筑波宇宙センターにいってきた。もちろん、CGと衛星に関することの知見を得るためだ。そのことはさておき、昨日帰りの電車の中で、私は大いに驚いた。

つくばエクスプレスでの出来事だ。

私は電車の窓方向にへばりついた横長の3人がけに座っていた。お見合いタイプの二人がけではないやつだ。当然、電車の通路を挟んで反対側の座席の人のほうに目がいく。そんなとき、ある駅から乗り込んできた少年がいた。年のころは小学三年生くらいか・・・。いまどきの高校生がもっているような角型で濃いピンクのエナメルのスポーツバックに、サッカー少年がきるようなロングコート。白いジョギングシューズのいでたちだ。

その少年、私の座る反対側の座席にすばやく駆け込み座った。私はその少年がスポーツバックをどうするのかちょっと気になった。3人がけのその椅子には、少年と、少年とは関係のないおじさんが一人。つまり、あと一人分の空(あき)がある。少年は自分が腰掛けたとき、バックをおじさんと自分との間に置いた。まぁ、老若男女ありがちなことだ。バックを座席においてしまうので、他の人が座れなくなる。なるほど、この少年は・・・と思った瞬間。その少年は自分の座った体制がととのったら、斜めがけしていたバックを解き、膝の上に乗せた。私はおもった。「おっ、できるな!この坊主!」「だれがどうやって、教えたのか」「親か、先生か、それとも自分で気付いたか?」
しかし、5秒くらいバックを膝の上に載せたら、そのバックを空いた座席と反対側、つまり自分と仕切りとの間に押し込めた。「なんだぁ・・・」とおもった矢先、その少年はポケットからパチンコ玉一個を取り出し、座ったまま、電車の床の上に置いた。「・・・」。なんだこの少年・・・。すいている電車といえども他のお客に迷惑ではないか・・・。できるな坊主!と思ったが、それは間違いだったか。

少年の所作を見ていた。
当初は、パチンコ玉を床の上に置き、電車のゆれに従って移動するパチンコ玉で床の水平を確認するかの様子だった。電車が動きパチンコ玉が大きく移動し始めると少年はパチンコ玉の行方を止め、もとの位置に戻して、遊んでいるからだ。
しかし、1分くらいその行動を眺めていたら、そのパチンコ玉がリズミカルにゆれる電車の床の上で左右に揺らぐものの、揺らぎの中心が変らないこと、さらには左右に揺れが切り替わるときのパチンコ玉の動きが、まるで太極拳をしている達人の腕の振りのように柔かく且つ俊敏であることに、私の目は釘付けになった。ほー、少年はそのことを知っていて、パチンコ玉の動きを観察しているのか・・・。と思い、関心した。いままで電車にのっていても、そんな観察をしている少年を見たことがない。

少年のバックのクスミ、ロングコートのしわと汚れ、ジョギングシューズの底の減り方からすると、「親が子の容姿に気をつける家庭」ではなさそうだ。少々、放任主義か?

だれからに言われることなく(?)、自分で楽しみを発見していた少年のたくましい想像力に脱帽。地球の将来を頼んだよ。そんな気持ちになった。(ただし、パチンコ玉の動きを観察していたならの話だが・・・)

覚書(42才の現時点で行き着いた場所として)

今年に入ってからとても実感することがある。バランスだ。 

バランスといっても体育会系のバランスのことではなく、日常生活を生きていくうえでのバランスだ。私はおそらく無口なほうだ。しかし、人前に立たされると饒舌になり、うけもしないのに「冗談」のひとつも言いたくなる。また、役割を任せられると、それを果たしきろうと自然に体が動く。たとえば、営業モードに抵抗なく・無理なく切り替わるなど・・・。だから、初対面の人にはよく誤解される。あいつはご機嫌なやつなのかと。いや、本当は違う。休みの日などは、家から出ないことが多いし、完全にフリー(役割がない)状態なら人見知りも激しい。
そんなことから常々思っていた。たぶん、バランスなんだろう。極端にご機嫌な自分がいれば、それと逆方向の人格もある。二つを足して二で割れば、普通。片方に極端にかたよれば、きっとバランスが崩れてよくないことが起きるのだろうと。多くの人は、人格にバラつきがないから、常に同一の状態を保てるのだろうけれど、私の場合は極端なので(真ん中がない)、片方の極端にあわせるように180度別の方向の極端が必要だ。そう考えていた。

このことを今年に入ってから極端に強く実感する。たとえばCGだ。昨日、同じ専門の分野の人に言われたが、「あなたのやりはじめたことは、大事だけれど、極めてマニアのみが発想する稀な着眼だ」と。そう。私も思う。極端なオタク的な仕事だ。一方、今年に入ってから、特に最近は金華山に果敢にチャレンジし、汗を流し、喉から血がでるか?と思うような運動を求めてやまなくなった。それらのトレーニングは苦しいけれど、心地がいいし、しかもCGで行き詰ったときに新たな解決口を見つけてくれることが多いからだ。目茶苦茶インドアなコンピュータオタクな仕事をしながら、目茶苦茶アウトドアな体育会系の運動。この組み合わせを絶妙に感じる。来年、コンピュータ関連で私につきたいという学生がいたら、職場の裏山にとにかく週に3回登れと命じたい気分だ。それほど、山に登るのはコンピュータ仕事に得るものがある。激しい山と激しいコンピュータは、バランスを取るために必要なのだろう。

またこんなことも考える。昨年から言い始めたことだ。「地球にいては地球が丸いことが分からない。地球から離れたうえで、地球の方向を見てはじめて地球が丸いことがわかるのだ」。最近、このことを確信する出来事がいろいろ起きている。たとえば、職場の方向性ことを考えようとしたなら、自分が職場にいることを意識しては全体が見渡せなく、いい方向性が見出せない。これからの林業のことを考えようとしたなら、目の前の林業話に顔を突っ込みつづければ、大局が見えなくなる。身近な人だけと話していたら、客観的な自分の位置づけがわからなくなる。・・・。つまり、あることをしようとするなら、そしてそのことが特に「大局」や「大義」や「将来の方向性」に関することなら、一旦、日ごろの自分の出来事と自分とを切り離してそれらを考えるといい。そう思う。

日ごろの自分と自分とを切り離す。これは、訓練がいることだと思う。しかし、私これまで結果的にそんな訓練を知らず知らずしてきたと思うようなことがある。

それは体の部分でいけば、中学・高校の陸上部の活動と大学時代の冒険がそれだ。陸上部、足が遅い自分は、皆について行くため、皆が力の70%の力で走っていてもでも自分は常に100%出していなければついていけない。大学時代の冒険は、苦しくてもとにかく進まないと終わらない・・・。そんな中、取り組んでいたことは、苦しいという気持ちと体とを切り離すことだ。体は体で動かして、心は心で別のことを考える、だとか、苦しいという気持ちを感じる回路を一時停止にして、体を動かすことだ。
また、大学受験のための浪人時代のお勉強のスタイルはとにかく、目にしたことある問題が入試で出て、それを解けなかったらさぞ悔しいだろうから、お勉強はアホだからできないにしもて、目にした問題だけは完璧にマスターしよう。そう思っていた。だから、問題集などはあまり多くに手を出さず、いつもの問題集を何度もやっていた。しかし、何度もやっていると、答えを覚えてしまう。解法を覚えてしまう。あー、これはあーやってとけばいいんだな・・・と。しかし、これは私にはよくない。はやる気持ちを切り離し、瞬時に思いついた「回答の方向性」を捨て、常に「始めて見た」気持ちで取り掛かるようにしていた。しかも、ひとつの問題には多くの別解があるので、ひとつの問題を、思いつくだけ別の角度から解こうと訓練していた。
この二つの切り離しの訓練が幸いして、「日ごろの自分と、自分とを切り離すこと」が少しできるようになったと思う。この切り離しが2つの極端な人格を形成し、バランスをとっているのではないだろうか。もしもこれができなければ、片方の人格のままで、バランスが取れずに破綻していたのでは・・・。

そんなことを考えながら、このことは「禅」の目指すところと通じるのではないだろうかと思い始めた。禅の本を興味があって読み始めたこともあったが、難しすぎてよく分からない。しかし、いろんなところで聞きかじる断片を総合すると、どうも「禅」は「心と体を切り離す」訓練を、座して呼吸法などをつかいながらしているのではないだろうか。そう思い始めた。
また、無我の境地とは、昔は「何も考えない」境地、真っ白な境地と思っていたが、最近では無我の境地とは意識を日常から完全に切り離し、「我の日常の意識がない」境地のことをいい、逆に深い普遍的な思考状態(哲学的な思考)に入っていることではないだろうか。

というわけで、最近では、前から自分が興味をもった「禅」(外国人で禅に興味の示す人わりと出会った。外国人が興味を示す禅を自分はしらなかった。それを、ちょっと残念に思ったことから興味は始まった)は座禅だけではなく、CGや山登り、数学・物理・化学の問題を解くなかでもできるのではないだろうか。・・・などと思い始めている。

「心と体の切り離し」「考えたい対象と自分との切り離し」「バランス」。この3つを最近、特につよく感じるようになった。