小学生の頃、中学生の頃、高校生の頃、大学生の頃・・・。ノストラダムスの大予言、1999年に人類滅亡。それ以外にこの世の終わりがあるだなんて、意識することはなかった。この世は無限に過去から未来へ流れていくと。いまから考えるとなんとも無邪気な少年だった。
30を過ぎてから感じはじめ、このところ特に思うのは、たとえ宇宙の時間は無限に流れても、「私が意識」する時間には限りがあるということだ。例えば・・・つまり、あと何回冬を迎えるか・・・。換言すれば、正月を迎える回数を指折りカウントダウンしていると、毎年終焉にむかって、確実に残りの回数を減らしている。しかし、そんなことは恐れることではない。誰もがそうだ。そうして生きているのが生き物なのだから、そこから逃れたいだとか、カウントダウンの数字を伸ばしてほしいという考えにも、まだいたっていない。
人間は何のために生きているのか?と昔考えたことがある。考えて、考えて、考えてみたら、「別に意味はない」ということで、気分がとても楽になった。この当たり前の結論。人は、別に与えられた使命があるわけでもなく、「ただ生きている」ということだ。そこで頭が切り替わり「せっかく、この世に生を受け、いまも皆さんのおかげで生きているのだから、自分が楽しいと思うこと」を精一杯、生(せい)ある間(あいだ)にしてみようと思うようになった。だから、楽しいと考えることを仕事にして、山に川に海に自然に・・・。そしてダイヤの原石の若者たちと一喜一憂の日々。
さて正直、自分の中では、もしかしたらあと10年生きられるかなぁと思わないふしもないではない。体を壊すような不規則な生活をしたり、常に限界に挑んだり・・・。まぁそうすることが「好き」だからしょうがない。しかし困ったことは、例えばあと10年と考えると「やっておきたい」ことができななくなるかもしれないということだ。だからここのところ特に、あと10年という期限で、自分の到達したい境地にたどり着くように、「竹庵丸」の羅針盤をセットしようとしている。・・・しようとしている。・・・しようとしている。・・・が・・・そうは問屋がおろしてくれない。
年をとってくると、またアチコチで法螺を吹いていると、「協力してほしい」だとか「共同で・・・」だとかいう、予期せぬ話が舞い込んでくる。そんなときは、『士は己を知るもののために死す』である。自分を必要としてくれる人のために命を燃やせる幸せ。だから、なるべくなら、自分個人的なことはほっといて、こんな「しょうもない私」を必要としてくれる人のために命を削ってみようと思うのだ。
ところが悩みは、相手がどれだけ「私を必要としているか」だ。一年に精魂込められるのはどうやら、私の能力だと、ひとつのプロジェクト。あと10年だとすれば、10個のプロジェクトにかかわれば、それでエンド。不用意に、しかも代わりの人が探せばいるのに・・・、たまたま私と出会ったために「お願い」されただけなのに・・・、そのプロジェクトに乗っかってしまえば、私は不用意に手持ちのカードを一枚きったことになる。つまり、さがせば代わりの人がいる仕事を受けてしまったがため、私は自分のかけがえのない貴重な有限の時間を浪費することになる。私が唯一無二の「人」であると先さんが本気で思ってくれるなら、命を削るのは幸せなのだが・・・。
つまり、ゴールデンウィークだろうが、休日だろうが、深夜だろうが、一生懸命、命を削ってお役に立とうとするのだが、依頼主は、「やれやれ、これで安心」とリラックスされていては、私も自分の貴重なカードを切った甲斐がないというものだ。
最近、G大学やら中部の財界やら倉敷の建設業界やらから、これまで何の義理もなかったところから話がちらほらあるが(KO大学やE大学、名古屋のソフト会社には、私は人生上大きな義理(というより恩)があるので、それらと意味合いが違う)、あまり安請け合いしてしまえば、残り少ないカードを切ってしまうことになる。これだけは避けねば・・・。
自分がプロデューサーであれば、話を振り振り、いろんなプロジェクトも同時に受けられるというものだが、どうやら私は「エンジニア」として自分の技量の向上に幸せを感じるタイプのようだ。自分の手や足を動かしていたい。となると、できるプロジェクトも人生残り両手で数えられるほどだろう。
人生が有限なのは歓迎して受け入れるとしても、こんちきショー、もっと魂を込めるべき事柄は厳選しないと・・・。と、このゴールデンウィーク前後からの森林調査をしていて思う。
しかし、今週は・・・。あらためてフラフラだった・・・。