以前からNHK大河ドラマの天地人の「?」ということを報告してきた。毎回ものなので、続きをどうしても見てしまいたくなる。そして見る。そしてフラストレーション。
こんな状況を脱すべく「原作」にあたってみた。コンピュータ処理の待ち時間、風呂、便所、ソファー・・・。細切れの時間を使いながら、ここ3日で上中下巻を読んでみた。
ところで、昔に起きた事象とそれのドラマについて
私はこう思っている。
歴史に書いてあることは、当時の事象よりも脚色がかり
歴史小説が書くことは、歴史よりも脚色がついており
脚本は、さらに歴史小説を脚色し
演出は、脚本に輪をかけて脚色してる。
だから、大河ドラマの描く歴史は大きく歪み、現代人受けに当時の事象とはかけ離れたものになっている。そう思っている。
さて、演出と脚本のなせる技の大河ドラマでは、世の評価は知らないが、今回の天地人、私には面白みがかけている。ところが、原作にあたってみたら、それはそれでそこそこ面白い本だった。
しかし、よくわからないのが、物語をとうして主張している「義」のカタチだった。上杉が豊臣に臣下の礼を取ったころから、ドラマも原作も、そこで言っている義が理解できない。感触としては、物語が描く世界をより人受けするために、強引に「義」というツッカエ棒で支えている感じだ。本来たいした話にならないものを、たいした話になるように・・・。
しかし、大河ドラマの大河とは、時代の大きな流れという意味で使われているのだと思う。そう考えると、今回の話は大河というより中河くらいの大きさの話で、大河の面白みが少ない。中河を大河に強引にするために、義という概念で繕っているような気がする。そこが残念・・・。
また、ドラマの石田三成がいつも同じ着物を着ているのも残念。
私が小学生の頃みた「黄金の日々」という大河ドラマでは、多くの大名達が秀吉や家康、信長の前に出ていた。大会議室で会議をしている様相だ。しかし、今回のは出てくる大名が少なすぎる。大名が少ない割には重要なことがすぐに決められている上に、上杉の家臣がその会議に参列している。子供ながらに戦国大名の名前は大河ドラマから覚えたが、今回のドラマからでは主だった戦国大名を網羅せず、歴史が進む・・・。歴史が代わっていく瞬間を目撃するような気持ちにはなれない。篤姫のときは、まさに歴史の転換点の目撃者になったような気分になれたが・・・。
脚本・演出が残念。衣装も残念(篤姫のときはゴージャスな着物だらけ)、登場人物も少ない・・・。そう考えると、NHKは大河ドラマにさけるお金がすでに尽きたのか?
原作をよんで、NHKの困窮に思いあたった。
大河は大河であってほしいなぁ。