バランカラヤから100キロ川をモーターボートで下り周辺の植生を観察。人口300人の町で宿泊。イスラムのこのくにではいまラマダンの最中。夕方からは小さなその町でも宇宙に届かんばかりの大音響でコーランが響く。いま9時になりやっとおさまったが、午前二時半からまたはじまるという。
月別アーカイブ: 2009年9月
バランカラヤ到着
飛行機の予定が大きく変更あったが、現地時間20時前に本隊と合流。昨日雨が降ったということで涼しげな感じがしたが、それはたまたまのよう。
本隊は今日オラウータンを森でみたという。
いまから約10日の調査が始まる。
入国
シンガポール経由でインドネシアに入った。明日ボルネオに向かい先発隊に合流予定。予想されたリサーチビザも滞りなく無事通過。
出発
今日、JICAの研修の最終日を終えた。これでインドネシアへ行く前までの仕事はすべて終えた。やっと荷造りが出来る。
ところで、写真の人はミャンマーの森林官。さすがというほか無い。今日、外でGPSについて話していたら、スズメバチがやってきた。スズメバチは、ミャンマーのキョウさんにまとわり付、あげくの果てに手にとまった。そして彼の手の甲を這いずり回る。キョウさんびくともせずにじっとし続けた。
(ズボンのポケットの小さな黄色い点が、キョウさんを偵察していたときのスズメバチ)
おかげでスズメバチにさされることなく事なきを得たが、初めてみた。スズメバチが人の体にとまりはいずりまわるのを。さすが、熱帯地方の森林官!
さて、インドネシア。
召集令状が来て、南方に派遣させる日本兵の気分とはこのようなものだったのか・・・。そうおもわないではないが、何とか無事に帰れるといいが。
また、やってもうた
インドネシアに今回なぜいくことになっているのか?
1990年代の半ばに、インドネシアで長いこと山火事が鎮火せず、煙などがおき飛行機が飛ばなくなったときがあった。あのときの火事が、ボルネオ島の山火事。今回行くのはそこの現場。理由は、昔は熱帯のジャングルだったその地だが、1990年前半からインドネシアで始まった「メガライス」プロジェクトによって100キロ×100キロのしたの地図の位置にあった森林が伐採され、インドネシアの食糧供給を担う田んぼへの開拓が進められた。
その開拓によって、100キロ四方で森林がなくなったのは、環境問題での先進国視点からは大きな問題だが、それに輪をかけて問題なことがある。たんなる森林の消失ではすまなかった。
そこの森林が湿地の上に成立した森林であったということ(もちろん、田んぼにしようとするくらいだから)に由来する大きな問題があった。というのは、湿地では木を腐らせる菌が水の中で息をすえないために、木が腐らないまま、長い年月をかけてどんどん樹木が積もり炭化していたところに、樹木を切り開き、灌漑施設をつくって水はけをよくしたら、湿地の水が排出され土地が乾くようになった。つぎに、乾いたために木材を腐らせる菌が繁殖するようになり、目に見えて炭化した樹木が分解、つまりなくなっていっている一年で数十センチ地盤が沈下しているらしい。言い方を帰れば、二酸化炭素をどんどん大気に排出している。1990年代の火事の時には、樹木の火事+泥炭の火事の合計で、そのとしの世界の二酸化炭素の数十パーセントを一気に大気に放出した計算になるらしい。
いまでは、火事がなくても水はけがよくなったその地では、どんどん大地が沈んでいき(泥炭が消失)、二酸化炭素を大いに大気に撒き散らしている。
そこで、第1にその地で行われている植物による二酸化炭素の固定量と、植物と泥炭の消失量による二酸化炭素の排出量を知るために、飛行機から計測したデータをもとに解析を行う。第二に、そこから二酸化炭素を出さないようにするにはそうしたらいいのか、という政策の提言をするというプロジェクトが始まった。私は前者のプロジェクトの一員として現地に行ってくることになった。
さて、なにが「やってもーたか」である。私は100キロ×100キロを自分ひとりでも移動できるように、今回、国際免許を念のためとることにした。さきほど、国際免許をもらってきた。2650円也。いろんな用事を後回しにして、優先して免許センターにいってきたのだが、すべての書類を出し終えて、お金を払って証紙を購入した後、「インドネシア」ではその国際免許が通用しないことを発見したのだった。
したの地図は、インドネシアでの調査のベースとなるパランカラヤ大学のあるパランカラヤの町。
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JICAのGIS研修
今週は月曜日から名古屋で毎年のこととなったJICAの研修の講師をしてきた。彼らとのファーストコンタクトは8月21日。あれから二週間たった今週、再び私の担当となった。昨年、魂を込めて身に着けたGRASSの講師だ。
今年の問題は英語だった。昨年は、JICAの職員の方が通訳をやってくれた。彼は分野としては未知の分野だったにもかかわらず、非常に平易な英語でわかりやすく説明をしてくれていた。だから、GRASSを伝えることに集中できた。しかし、今年のJICAの担当者は、「私の専門ではないので・・・」といって通訳をかって出てくれない。したがって、私がオール・イングリッシュでやらなければならない。おいおい、冗談ではない。そーゆー話だったなら、私は受けなかった・・・。・・・が、それも後の祭り、幸い、研修生も英語が母国語ではないので、私の酷い英語(というか、英語の体裁を成していなかったとおもう)でも、耳を傾けてくれた。
さて、彼らが私の話をわかったかどうかは、わからぬが、なんとかあとは月曜日のうちの職場での対応をすれば、あとは熱帯ジャングルに旅立つことになる。
今日は、その準備で名古屋の病院で、破傷風・A形肝炎・日本脳炎の予防接種をしてきた。そしてマラリアの予防薬も買ってきた。しめて21000円也。
インドネシア その後3
インドネシアの日程がきまった。9月15日発、9月30日着。
中部国際→シンガポール→ジャカルタ→パランカラヤ
パランカラヤ→ジャカルタ→シンガポール→中部国際
そういった行程だ。
現地では、ジャングルの中をキャンプしながら森林調査をする。
マラリア・はしょうふ、日本脳炎。ヒルにダニ・蚤、毒蛇、猛獣、細菌、ばい菌。ヒマラヤとは別の「命がけ」・・・。
あとは職場の決済が降りるのを待つだけだが、月曜日から毎年のJICAの研修をN大学で行うために職場には不在。ひと悶着あったらどうしよう・・・。
二輪講習会
今日は自動車学校の卒業生を対象にした二輪講習会があった。免許をとってから気になっているところがいろいろあったが、公道でそれをするわけにはいかないし、駐車場でぶんぶんするのも迷惑でできない。もういちど、教習所のコースでスラロームの試技をしたいと思っていた。
そこで講習会に参加した。
いままで、自分のバイクで教習所を走ることはなかった。だから、教習所で身に着けることになる技術が自分のバイクでは微妙に違うと感じていた。しかし、今日は思う存分、試すことができる。
スラロームのときのアクセルのタイミングとフットブレーキ、前輪サスペンションへの負荷のかけ方などが免許を取ったころよりもよく分かった。低速での小回りターンも安定にできそうな気がしてた。
近所にある喫茶店
金曜日、一年に一度の人間ドック。今年の6月から運動を控え、しかも酔拳の毎日?だったため、体重は昨年よりも4キロアップ。体脂肪は5%アップという醜態だった。まぁ、いい。いまは運動をセーブしているときだから仕方ない。
さて、人間ドックが終わった後、昼飯をどうしようかと考えた。まよった挙句、近所の「プランツ」という喫茶店にいくことにした。ここ5年のうちまだ片手の腕ほどしかいったことがないところだが、750円なのに「うなる」味だ。とくに3年前、さんまの香味焼きは絶品だった。そろそろさんまかなぁ、そんな思いもあって行ってきた。2年ぶり。もうマスターは覚えていないだろうなぁ、そんな思いで扉を上げた。
「えー、まだ学校は夏休みなの?」とヒゲのマスターはいう。どう見ても顔は怖いヒゲずら。「今日は人間ドックで・・・」「健康そうじゃない」・・・。おー、マスター覚えていてくれた。
私は、よくいくお店でもそこの店の人と話すことはしない。しかし、このプランツでは常連ではないが、店の主人とは話をするようになっている。
プランツを教えてくれたのは、古くからの知り合い。知り合いは、プランツの常連。彼から店を聞いたので、5年前のある日に入った。
恐面のマスターに驚き、私は店に迷惑をかけないように、カウンターに座ろうとした。するとマスターは「そこのカウンターは常連の関だ」といいたげな視線で、首を横に降った。私はその日静かに食事をして家に帰った。
そして次の日くらいにたまたま、プランツを教えてくれた人にあった。そして恐怖の体験を彼に語った。すると彼がプランツにいったとき、「こないだ坊主あたまのおっさんがきたでしょ」と彼に私のことを話した。彼は私をどこかの「お坊さん」だと思ったということだった。
そんなことで、次に言ったときには、旧来の知り合いのように私に声を買えてくれるようになった。
しかし、今回は2年ぶりだ。まぁ忘れているだろうなぁ。そう思っていたが、はやり坊主あたまは印象にのこるのか、覚えていてくれた。はやり坊主あたまは人に覚えてもらいやすい。
ところが、ところが、その日の人間ドックで驚くことを体験した。
昨年、9月の下旬に人間ドックに行った。そこで、「印象深い顔」があった。しかし、そんなことも一年も立てば、そんな人にあったことも忘れてしまう。・・・が、今回、また彼と同じ日の同じ時間帯に人間ドックをうけることになった。
背丈は180くらい。年のころは50才代。鋳物工場の現場で働いているような感じの肌の色。ドリフの加藤ちゃんがしているような黒ブチの眼鏡。牛乳瓶のそこのようなレンズ。そして作業着。
そんな彼を見た瞬間に「おっ、このおっさん去年も一緒だった!」そう思った。
・・・そして思った。この坊主の私を人間ドックで一目見て覚えてくれた人はいるだろうか・・・。すくなくともプランツのマスターには印象深かったようだが・・・。
(今回のプランツのランチもおいしかった・・・。うなった。またランチだけではない。バイクでお店に行ったのだが、バイクで入ってきた私をみて彼は、ほー、バイク?俺は向かし族だったからねぇ・・・。冗談ではないことがその後の話でわかったが、ともかく、やはりマスターの恐面にはなにかがあった)
東京の木材製品市場
昨日、学生一人をともなって東京中央木材市場に行ってきた。学生の家では12mまで枝打ちしたヒノキを裏木曽といわれる地域で作っている。先日名古屋の木材製品市場で、そういった枝打ちした丸太のニーズを聞いたら、「ない」と一言で片付いてしまった。なら、日本人口の6分の1がすむ関東ではどのような評価だろうかと思い、市場を訪ねた。
市場ではヒノキの無節の柱、板・・・そして尺角ほどの大黒柱が溢れんばかりにつまれ、これらが、ちゃんと回転しているということだった。12mの枝打ち柱のニーズがないこともないが、しかし引っ張りだこということではなさそうだ。
驚いたことは、売れるには売れるが、安い!ということだった。東京では紀州・吉野のヒノキがもっとも売れるということだったが、無節でも一立方mが8万から10数万。
また、製品の値段と原木との値段の関係は、昔は製品の半分が丸太の値段ということだったらしいが、いまでは製品の3分の1が丸太の値段だということだ。ただでさえ製品が安いと思ったが、それはダイレクトに丸太の値段に反映する。
ユーザとして製品が安いことはうれしいが、山に関心をもつ人間としては・・・複雑な気分だ。たとえば、したの写真の板。3000円でも売れなかった。左となりの板は節のないスギの板だが12000円で、やっと売れた。