月別アーカイブ: 2011年10月

えっ、そこまでするの?

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驚きの光景を発見。
職場の私の居室から見るキャンパス。ケヤキが紅葉(というよりも枯れている)。そして葉は地上にひらひら舞い落ちる。秋の景色だ。

なんか、うるさいなぁと思ったら、ブロアーでケヤキの葉っぱを吹き飛ばしている清掃のおじさんがいた。もーーー、びっくり。ケニアのモンバサでみた光景。雇用のすくない当地において雇用確保のための仕事作りとおもっていたが、まさか日本でも・・・。すくなからぬ驚いた。

そんなところで人を雇うお金があったら授業料を安くしてかげたらと思うが、キャンパスがいつも人工的にきれいなのもそんな人々の努力のおかげかぁ。

そんな大学いままでみたことなかったが、よくかんがえれば、小学校のとき外庭(がいてい)の掃除をしていた(外庭の掃除が一番好きだった。虫なんかを捕まえて遊べたので)が、要するに、あれは小学生の労働力をつかって校舎の掃除をしていたのかぁ。自分で汚したならいざ知らず、はたして落ち葉は掃き集める必要があったのだろうか。

あの掃除のおじさんを見ていて40年前を思い出す。

研究費

以前の職場では、ほぼ「外部から研究費をいただく」ようなことができなかった。事務に相談にいくといつも難しいという理由を言われ、結局、相当な勢力と気配りを事務につぎ込まねばならぬので、相手にするのは得策ではないとしていた。

しかし、この職場はまったく普通の大学である。「科研費(文科省の研究助成)に申請するのは研究者の常識」(ただし、当たる可能性は高くはない…)。そこで、一旦書籍原稿を停止して、科研費の申請を書いている。これが楽しくて、楽しくて・・・。エントリーすることに意義があると思っているのだが、書いているうちに研究をしているような気分になり、妄想が加速、加速…。

なんだか、体が柔らかくなり、いままで蹴り上げられなかったところに足が届くようになった嬉しさだ。実践で使える(研究費があたる)とは切り離しても、そうやって体の可動領域(研究遂行の可能性)がひろくなったことはまったくうれしい。

ノスタルジー

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25年前の沖縄では、私は下の写真の赤いジャージの男である。髪はフサフサっ!!
消えかけた記億を、繋ぎあわせてあの頃の気分を思い出したい。そんな望郷(ノスタルジー)気分に浸る今日この頃だ。
昨日は、旅日記を読み返し、今日は25年前の旅の最中リュックに入れていた沖縄の宿情報ブックを読み返した。
私の記億が正しければ、沖縄の宿泊費は格段に安いというのが第一の思い出。第二の思い出は、沖縄の車は格段にボロボロだったということ。おそらくそんな車新車好きは東海圏だけだろう、調子も悪くない車を買い換える文化を持った地域は(25年前は自動車産業が活発な地域は最新の車を毎日目にして、しかも自分で作っていれば新しいものが欲しくなると理解していた)…。

さて、前者の宿は、最後の1泊を除きすべて、地図で現在地を探し、ガイドブックでなるべく近くで安い宿を探し素泊まりしていた。お陰で社会人になってから、沖縄の話になって盛り上がったかと思ったら、その後食べ物の話になって一気に話題についていけなくなった自分がいた。なぜなら、素泊まりして朝も昼も夜もフランスパン(顎が疲れるのであまり食べなくてすむ)と牛乳だったので沖縄に行っても名物を食べたことがなかったからだ。

さておき、このガイドブックをみて驚いた。
私の沖縄最後の宿は1泊500円の畳がすり切れた4畳半に2台の二段ベットがあった「星のいえ」という民宿だ(道すがらの看板に吸い込まれるように入っていった)。その印象が強いせいか、沖縄の宿は極めて安い。そう思っていた。ところが、当時の本を読み返すと素泊り1泊安いところでも1500円から2500円。なにぃ!これでは東京のドヤ街のベッドハウスよりも高いじゃないか!

思い出だけが独り歩き。いつも身にしみている格言が更に見にしみた。

1987

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沖縄に行くことにした。
ミッションその1 高江小中学校への柿の差し入れ。
ミッションその2 照葉樹林の森を歩く
このミッション2だが、いままでいろんな森を歩いてきた。だから、感覚として良い森(ただし目的によって良いの評価は違う)というイメージを持つことができているように思うが、照葉樹林はさっぱりわからん。くらぁ~い 森が照葉樹林ということでいいんだろうか…。実は、いまの職場にも照葉樹林があり昼もくらぁ~い。しかし木の密度はそれほどでもない・・・。それは果たしてどんな森と評価したらいいのだろう。そのため、知多半島・渥美半島の森を歩く前に沖縄の森(両者照葉樹林)を歩く!

さて、沖縄行きがいまり、昨日したこと。19歳の春休みの沖縄徒歩旅行を振り返ること。そこで、当時旅の最中に書いていた日記を引っ張り出す。フムフム・・・。そして当時の写真を引っ張り出す。フムフム・・・。さて、そんな沖縄がどう変わったんだろう。興味は尽きない。

密かな充電…?

最近、ずいぶん疲れた…。
昨年、ケニアのモンバサで充電したように、そろそろ充電しないと…。
密かに12月の再びケニア行きを打診されているが、仕事ではなく、まったくの白紙の充電をしたい…。

いまは、今年特に楽しめなかった入道雲の季節を探しに行きたい。

一番いきたいのはサイパンだが、なぜかここ2年くらいの間にサイパンツアーの価格が上がる。とても貧民にはいけない価格になっちゃった…。何故だろう。昔JALの直行便がなくなってからサイパンの価格は激安になったらしいのに…。

そこで、いま食指を伸ばしているのは、25年ぶりとなる沖縄だ。「沖縄本島!入道雲を探しにツアー」。気持ちはそんなんだが、キャラクターとしてそんなことをする私ではない。そこで、沖縄でのイベントを考える。

実は大学1年生の春休みに沖縄本島一周歩いた。300キロを10日かけて。思い出深い沖縄だ。片道15000円のフェリーで二泊三日。オリオンビール。かりゆし乳牛。…。
そしてなんとも思い出深いのが「高江小中学校」での出来事だ。

なにも知らずにガッツと根性で乗り込んだ沖縄。初日から朝の雷雨で大変なめにあった。そこで、テント宿泊を諦め安宿宿泊に。そんな行動をしていたとき、ヤンバル地方での出来事だ。

ある日の夕方、水を飲もうと通りがかりの小学校による。水を飲む。すると小学生がやってきて、よそものの私を取り囲む。「オニーチャンどこから来たの?」なーんて。

そして私は、子供たちの受けを狙い、お兄ちゃんはこんなこともできるんだよ、とバク宙をしてみせた。すると子供は、おにーちゃん、うちに泊まっていってよ!!!と声をかけてくれた。

私は、「きもちは嬉しいけど、お父さんがびっくりしちゃうから今日はいいよ」そういって彼らと別れた。そしてその日の宿は、港町の公民館。同情した近所のおばさんが公民館を開けてくれた。

朝、1合飯をおかずなしで食らい歩き出すと、雷雨…。めちゃめちゃ近くで雷がなる。しかし、むらとむらは20キロくらい離れている・・・。私は雷雨の中歩き続けた。

そして人里を見つけ、小学校を発見。
小学校では卒業式の予行演習だった。私は体育館の軒下でリュックの荷物を干し雨がやむのを待っていた。すると、小学生がやってきた。

「お兄ちゃん、いまから給食だけど、一緒に食べよう!先生も一緒にどうですかといっているよ」
「あー、ありがとう。じゃぁ・・・でも荷物をバックに入れるからちょっと待ってて!」
「あぁははは、このへんじゃぁものをとっていくひといないから、このままでいいんだよ」

私は給食をごちそうになり、そして、弁当まで持たせてもらい旅を続けた。
麦飯に、コロッケ。美味しかった。また冷めていただけど暖かかった。嬉しかった。感動した。
思い出深い高江小学校。
その小学校になにか差し入れをしたいと思い続けて25年。

そう!沖縄で充電ができるなら僕は高江小学校に名古屋か岐阜の名物を差し入れしたい!!
25年の積年の夢。これが充電ミッションだ!!

HPで調べたら小中学校の全校で14名。昔と変わらない。
もしかしたら25年前、「兄ちゃん、このへんじゃぁものを取る人いないよ」といった少年の子供がいるかも知れない

嗅覚に訴えるバイク

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昨日雨。この週末の段取りが狂いtossan の里芋購入作戦をギブアップ。
自分の畑の手入れ・バイクの整備で午後を過ごすことになった。

さて、バイク。実はいま3台が手元にある。前から乗っている250ccのバイク。そして125ccの1968年バイク。9月に購入した110ccのカブ。もっぱらカブに乗っている。理由は静かだからだ。250ccも静かには静かだが、カブに比べればうるさい。けれど、高速道路に乗れる可能性があるから、手放せずに…。

125ccも魅力がある。もちろん修理しまくった愛着はあるが、それは楽しませてもらっていたので愛着はペイできている。愛着に勝る魅力は、バイクの匂いだ。

エンジンが熱くなる。交差点で止まる。するとしたから(エンジン)からオイルが熱くなって気化したのか、なんかわからないが、絶妙に高度成長期の日本の匂いがする。昔、子供の頃嗅いだことある懐かしい匂い。

きっと有害には違いないが、あのノスタルジックな匂いは、あのバイクを走らせる理由として十分だ。

原稿

12回の連載原稿、もう何回読みなおしたことだろう…。そろそろ締め切りだ。10月末がそれ。昨日文字原稿の第一稿がでた。そのあとは、図表、そして用語解説などにしていこうと思っている。

連載を書籍にする時にどうしたらいいのかわからないなりに
① 目次と小見出しを並べて
② 一冊の筋をつくり
③ 加筆し
④ 修正する
という作戦で、なんとか文字の編集作業はおわった。
これから、図表だが、はて…。
いつも慌ててだしているので、オリジナルの図表はどこに行っただろう…。そこから始めないといけない…。

もっとしっかりしなければ、と思い続けてはや40数年。

シグマぁ~?

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先日からやっているデジカメを改造した研究道具。だいぶ目処が立ってきた。そこで、そろそろまともなカメラを入手しようといろいろ調べた。そしてシグマのSD14というカメラがよさそうなことを発見。調べるとそれは中古でしか回っていないカタ落ちモデル。ネットで検索して中古を2台かった。一台3万円。そして、レリーズという部品も同時に買った。シャッターをリモコン操作できるためだ。リモコンを分解して構造を知り、それをコンピュータ制御できるようにしようという目論見。

大いに目論見が外れたのはカメラだ。シグマのカメラと言ったら…。失礼だが、キャノンのレンズが高くて買えないときにしょうがなく買うレンズメーカーだという認識。私も2本持っている。28-200mmのズームレンズと12-24mm(ヒマラヤの景色撮影用に購入した特殊なレンズでこいつは高かった)のレンズ。そんな二流(失礼)のレンズメーカーが出している一眼デジカメだ。中古で3万というのも納得。割安感を持って注文した。
しかし、そのあと驚いた。レンズ、今回は単焦点レンズを探しているので、その値段、なんとカメラ以上。カメラよりもレンズのほうが高い!!

とうことは、6万以上さらに…。泣きたくなった。

私費で「あの黒い箱」を作り出血。
私費で「デジカメ」を買い出血。
そして、レンズを…

出血多量で死にそうだ・・・。

Infra-red バロン

「レッドバロンって知っとるか?」愛媛で恩師から尋ねられた。理由は、恩師が今年の夏、カナダ・アメリカで森林計測をしたときにつかった航空会社が「インフラレッド・バロン」という名前だったからだ。
近赤外・男爵(インフラレッド・バロン)というシャレが理解できるためにはレッドバロンをしらないといけない。だから、そう聞かれた。

インフラレッド、それは赤外線を意味して、私が作成しているデジカメに通じる。

そんなもの・・・バイク乗りの私だ知らないわけがない。
「もちろん、知ってます」
「バイク屋でしょ」
「わしゃ、なんでそれがレッドバロンなのか知らんが、そのレッドバロンではない」
そう言って説明していただいた話は面白いと思った。

第一次世界大戦のドイツ。敵をよく撃墜する戦闘機乗りがいた。彼はバロン、男爵。その男爵は、自分の飛行機を赤で塗っていた。だから、敵はその赤い戦闘機をみると「おっ、レッドバロン」が来たとわかったらしい。

なるほど、あのガンダムの「赤い彗星シャー」は、レッドバロンのパクリなのか。

しかし・・・、ただ事ではないレッドバロン。そんな赤い戦闘機がきたら、「私は強敵」と広報しているようなもので、敵の集中砲火を浴びること請け合いだ。ということは、なんだ・・・。レッドバロンはその集中砲火をかいくぐる自信があったのか・・・。それとも、集中砲火ができない当時の状況があったのか・・・。
恐るべし、レッドバロン妄想。いまの社会でどうらどう、カダフィー大佐がわざわざ自分だとわかる車で戦っていただろうか?当時のあの頃はどんな状況なんだろう。想いは馳せる。