月別アーカイブ: 2014年8月

高校野球に思うこと

昨日、夏の高校野球が終わった。
うーーー、熱い戦いありがとう。

そんな中、釈然としないことが・・・。
「超スローボール」や「盗塁しすぎ」のコメントだ。
そして種類は違うが、勝ったチームの校歌斉唱・・・。

さて、最初の2つ。
超スローボール、盗塁、いいじゃないか。すごいぞ!というのが私の思うところ。
そんなことでコメントするオッサンに寂しさを覚える。
高校球児が雨の日も風の日も雪の日も日照りの日も・・・、物心つくころから少年野球を狂ったように打ち込み甲子園に出場したことは、想像に難くない。その一方で、君たち将来何をしたいんだ?と尋ねたとき「人生をかけて打ち込む興味あること」を見つけられていない人が多いことも想像に難くない。
つまり、彼らは自分の人生の大半に役に立つであろう体験・経験を犠牲にして、甲子園出場に集中してきた(・・・んだと思う)。
そんな彼らに私たちは、なにもお手伝いをしているわけではなく、クーラーの効いた部屋で甲子園の放送を観て一喜一憂して批評している。
おいおい、違うんじゃないか。・・・というのが私の感覚。私たちは、無料で、しかも何の苦労もなく高校球児が賭けている彼らの人生の輝きの1点を楽しませていただているのではないか。どんな戦いであろうと正座して観よ!野球で飯が食える人が何人いるか・・・。彼らが放つ青春の輝きに彼らを、器用に生きようと指向する年老いた自分のヒーローとして賞賛せよ!!!
スローボール?大歓迎。
盗塁?お見事。
好きなようにさせてやってくれよ。そして賞賛の声を・・・。甲子園我が物顔のオッサンにいいたい。

さて、校歌斉唱。
こいつは、今ひとつ理解できない・・・。
出場校は県を代表しているのだから、勝ったら、県の歌をうたうのが筋ではないか?
オリンピックを考えてみる。オリンピックで優勝したら、その選手の所属する会社の社歌が歌われるのだろうか?そんなことはない。彼らは国の代表だ。だから国家が斉唱される。
だから、筋からいえば勝ったチームは、自分の所属する都道府県歌をうたうのが筋。ところがそうではない。超ローカルな校歌だ。
県歌が普及していなく(あるいは、ない)、生徒もしらないから校歌を歌うのが、順当なところかもしれないが、ホントなら県歌なんだろうなぁ・・・と思いながら甲子園を視聴した。

マイマイガ祭りの後

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昨日、お盆の長雨の一休み(?)の間隙をついて、山小屋の基礎工事の打合せに行ってきた。

この地、恐ろしくマイマイガが発生したらしい。おかげで、山小屋の建設予定地につくった物置の中にはマイマイガの悶絶の後が・・・。
どうにかコウニカ物置に潜り込んだものの出口がわからなくて息絶えたのだろう?
サナギのあとも、マイマイガもほとんどなかった。あったのは干からびた幼虫。

さて、基礎工事。
いつになるかわからないが、雪の降る前にどうにかこうにか基礎ができそうだ。

仮組み

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山荘づくりも部材の加工は終わり、仮組みの段階にはいった。そして、穴あけの位置を間違えたため、本来室内側にもってくるつもりだった、柱の割が外側になってしまう。これを修正しようとしたら、また時間がかかる・・・。まぁそんなこだわりはよしにしよう(そんなに耐久性を必要としているわけではないし)。

仮組みしながら、
なんとか、2m×3mの空間は作れそうなことがわかったので、この段階までで今日のところは終わり。

あとは、どうやって木材を山荘に運ぶかだな・・・。

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中期的予感

小学生・中学生の頃、家が専業農家の同級生がいた。
子供ながらに、陽の目を見ない仕事で、農家の子供は自分の家が農家であることを、他の同級生に黙っていたい職業だと感じていた。私は自分のこととして農業を考えることはできなかったし、考えたくもなかった。
家の自家農園で畑を耕していたりするのを同級生に見られたくはなかった(家の手伝いで畑を耕していたのだが・・・)。畑を耕すのはなんだかかっこ悪い・・・。そんな風に思っていた。案の定、中学生の夏休み、家の手伝いで畑を耕していた私を同級生がたまたま見つけ「密かになすの栽培」と一言いって通り過ぎた。いまから35年くらい前のことなのに、その言葉を覚えている。

ところが、どうだ。今日は、畑の草取りとバナナメロン(tossanから頂いたバナナメロンも今年で5年目くらい)の収穫を汗だくになってしたいた。草取りしながら、草の種の違いや成長速度、種の住み分けなどに感嘆している。自分が口にする者は、自分で作る。そんな生活をしたいと思うようになった。農業なくして自分のライフスタイルはない。

年月がそうさせたのか・・・。もちろん、後継者不足で廃業する農家が多いが、いまでは農業就業は、攻めの起業であったりする。一方、製造業の現場に立つことのほうが、後ろ向きの仕事担っている感がある。いまの子供は農家についてどんな印象を持っているのだろう。

ところで、先ほどTVを見ていた。都市の中心街で会社のIDカードをホルダーにいれてぶら下げて街をあるくOLさん。髪型も化粧もスーツもきまっている。そしてランチタイムにビジネス街に繰り出す。そんなライフスタイルに自分を追従させているんだろうか。
私は可能なら、食事のために一旦家に帰る、あるいは朝つくった弁当で済ます、そんなライフスタイルに憧れる。そして最近、そんなライフスタイルを良しとしている人が増えているのではないだろうかと感じている。

さて、ここからが本題。
中山間地の祭り。多くの祭りが消滅してきた。
村の祭りは、子どもと老人の仕事であり、働き盛りは祭りにかまけている暇はない。また、働き盛りは村から出て行く。そして消防団も維持できない・・・。
しかし、私は中期的な展望に経てば、村の生活を良しとして積極的に田舎暮らしをし、田舎に溶け込もうとする人が増えてくるのではないだろうかと思っている。収入に感心を持つことから、人とのつながりを重視するというか・・・。
アイデンティーの確立するよりも連帯を重視するような・・・。

私は、人間の行動原理は「帰属する社会を得ることが必須であり、その後その帰属する社会の中でアイデンティティーを確立しようとする」のだと思う。昔は、連帯があったので、ともかく帰属する集団の中でのアイデンティティーを確立するように動いていたように思う。アイデンティティーの成否の物差しは現金収入の額、すむところ・・・。しかし、彼らは連帯が煩わしいものと考え、自ら帰属を放棄し、手段から自分を切り出した。

あれから20年、30年経つ。いまは帰属する集団がない人々が都会の大勢を占めるようになった。帰属する集団がないなかでアイデンティティーを確立しよともがいている。しかし、多くの人間は寂しがりやだ(私は自我が強いから(?)、帰属する集団がなくても楽しいのだが・・・)。だから、帰属する集団がないままアイデンティティーを求める人生が虚しいく感じてきた人も多くなってきたように思う。

だから、Iターン、Jターンをして地域に溶け込み(私は人見知りだからそれができないのだが)、貨幣の物差しとは別の物差しを持って精神的に安堵する人が近い将来多くなるのではないかと思っている。貨幣以外の物差しを放棄し、「弥生DNAや縄文DNA、江戸DNA」を刺激する人生を上位に考える人が多くなっているのでは。

だから、最近、日本の多くの街で消滅の危機・・・。祭り消滅の危機・・・。ということばをよく聞くが、私はもうしばらくしたら、中山間地は明るく楽しく存在しつづけるのでは無いだろうかと思っている。そして、盆と正月、冠婚葬祭をこころから楽しめる人々がグンと増えるのではないだろうかと思っている。

そんなことを、最近思った。