月別アーカイブ: 2016年1月

妄想竹

今日、職場から外に出て、あちこち行く過程の中で、時間をつくってかねてよりの懸案であった古い銀行口座の整理にいった。大学時代、会社員時代、無職時代…。いろいろ通帳があった。
名古屋の伏見にいったついでに銀行行脚。

三井住友銀行で思ったこと。
どうだろう、明治からの建物か・・・、えらく天井が高く、なんというか・・・石造りの洋館。まるで鹿鳴館のような・・・。

名前を呼ばれるまでの間、ぐるぐると壁から天井から見渡した。
すると、ホールから見える二回の扉が空いた。
銀行の職員と思われる男性と、その人に会いに来たと思われる2人の男性がいた。腰を曲げて頭を下げていた。100年以上前の壁や扉の中に、現代のビジネスマンの姿・・・。

想像したのは、100年前の銀行職員と今日の2人の会社の職員も、こうしていたのだろうなぁ・・・と。
人は死ぬが会社は常に新陳代謝で生き残る(もちろん、実際は生き残らない会社のがおおいのだろうが)。
人は老いて定年しても、すぐに新たな人材が送り込まれ、会社は継続される。

人が生活するために会社があるのか、会社が存在するために人が存在するのか?
人間は変な仕組みをつくってしまったものだ。

今日の三井住友銀行で、いつものことながらまた思った。

高校の先生の指摘

確か、1999年くらいだと思うが、当時32才ぐらいのときに教育実習で、卒業した高校に行った。人より2年遅れて大学を卒業し、民間企業で5年勤めた後退職した。退職後、その後の人生を考え選択肢の1つとして高校教員も視野に入れていたからだ。

卒業して15年程たっていた高校では、知った顔の先生も数人いた。そこでの再会を機会に年賀状をやりとし始めた先生もいる。その先生からの今年の年賀状に「おまえも、ことしで50才・・・」という問いかけがあった。
間違いない!今年誕生日が来たら、俺は50歳だ!
びっくりした。まだ、何をも成し遂げていないのに、既に50。あと10年で還暦!残された人生は少ない…。

成し遂げる、成し遂げないは重要なことではないが、自分の年に少なからず驚いた。

保育園の入園で初めて行った保育園の帰りに、一緒にいった同級生へかけた言葉も覚えている。
小学生のときの言動の数々も鮮明に思い返せる(もっとも強烈な印象だったか、あるいは何度も思い返している場面だけなのだが)。
中学校のときの感覚も数年前と同様に鮮やかに蘇る。
高校、大学、社会人…つい昨日のことのようだ。

しかし、たとえば私が沖縄に徒歩旅行した1988年3月は、沖縄返還から1972年の沖縄返還から数えて16年。当時、ヤンバルの民宿でお世話になった老婆が、沖縄が日本に変換されてから若者は贅沢になったと嘆いていた。当時沖縄には、砂埃にまみれた車ばかりが走っていて、愛知にもどってきたときに走る車の輝きに驚いたものだった(車を一生懸命洗う文化を私は不思議におもった)。

小学校5年生だったか・・・。名古屋の吹上ホールで中国展というのがあった。そのとき、親に鉛筆や折りたたみハサミをかってもらった思い出がある。今思えば、あれは中国との国交正常化をして数年後の記念のイベント。時代は確実に動いていた・・・。

昨日のブログにアップした秋田県男鹿半島の老夫婦のことも然り。

でも、・・・いまそれらのイベントを逆算すると人生の前半部分での出来事。
自分の人生の折り返し地点(今年でいえば25年前)を明確にして、位置づければ随分前のことと思っていいはずだ。けれど、自分の意識のなかでは、鮮やかな記録・・・。

そう思う原因はなんだろうといつも考える。
いまのところ思い至ったのは、老いの実感を正面から受け入れる脳の準備ができていないことではないかと思っている。

もしも、年とともに見える景色の色が変わるのならば、日増しに老いを実感するだろう。
けれど、見える景色の色は変わらない。いくらボケても、脳はいつも等身大の自分が100%と認識するであろうことから、他人には老いを察知されても、自分では察知できない。
現時点で、老いを感じるのは、時に体の可動領域が狭くなっている、あるいは昔はできてたことができなくなったと実感する瞬間だ(高校時代懸垂が18回はできたように記録するが、大学時代にはそれには及ばなかった。それは老いによるものではなく、練習していなかったと片付けていた。けれど、いまでは練習さえ出来ないこともあり、その瞬間だけ老いを感じる)。けれどすぐ忘れ、昔と同じ気になってしまう。

あと、10年たてば還暦。あと20年たてば70。30年たてば80。
10年前はアカデミー勤務して5年のあの時だ。
20年前は教育実習のころ。
30年前は北海道・沖縄・本州横断の徒歩旅行のころ。

うむむむむ・・・。

人類誕生以来、誰もがそんな人生の時間を振り返ってきたのだと思うと、感慨深い。

25年前の今頃…

今日、車で運転中の出来事。
自車の前に、宮城ナンバーのダンプ。後ろには、札幌ナンバーのダンプ。
この季節に北国のナンバーのダンプをみると思い出すことがある。

いまから25年前の今頃、私は大学最後の春休みの旅として、初めての海外旅行を計画していた。卒論で、タイの森林面積と経済発展との関係を分析する過程で、タイに関する本を多く読んだ。行ったことないのに、行った気がするほどタイを知った、つもりになっていた。百聞は一見にしかず。そんなわけで、大学最後の休みにはタイに行くことを思い立った。

先立つ物はお金だ。
卒業最後の年で留年した私は、余裕を持って卒論ができていた。(夏にはほぼ終わっていた)
正月挟んだ冬休みには、大学にいく必要もなかったので、冬休み中のバイトを探した。その結果、ちょうど建設中だった碧南火力発電所の資材かたずけなどの仕事にありついた。

昼休みや休憩時間、プレハブ小屋で一緒に働く人たちの会話がいまも耳に残っている。
「秋田に帰ったってやることはないので、もどらんでもいいのだけど、孫が会いたいっていってるので正月に帰る」という老夫婦。彼らは秋田県男鹿半島からの期間労働者。冬場の出稼ぎは、彼らにとって、当たり前のようだ。毎年、この工務店に冬場出稼ぎにきているらしい。もうそんな生活を何十年もしているとのこと。

大学生だった私は、孫がいるくらいの高齢になっても、生まれ故郷を離れて、工務店の飯場で寝起きし、働きに出なければならない状況を気の毒に思った。しかし、年をとったいまでは、働ける場所や体があるということは、幸せなことだと理解できるようになった。いまでも秋田の男鹿半島では、出稼ぎが続いているのだろうか…?私が大学生だったころから随分と時間が経っている。いまでは経済活動などもかつてとくらべ活発になり、さまざまな仕事ができている。
あの老夫婦・・・まだ存命なのかな・・・。今年も冬に人の大移動があるのかな・・・。
どちらも可能性は低いことだと思うが、北国ナンバーのダンプを見るたびに、雪がちらつく25年前の工事現場のあの一コマを思い出す。

常総市

jousou

1月10日、11日と休日を利用して、9月の水害地の復旧状況を撮影するため職場の360度カメラを搭載したトヨタ・ハイエースで現場を往復した。新幹線入りする同僚とは現地で待ち合わせ。私が往復運転した。
走行距離は約1000キロだが、愛媛を往復することの多い私には、ラジオも音楽も必要なく、妄想している間にドライブは終了する。

さて、現地の復旧状況だが、浸水程度の箇所は、もう何もなかったような景色だったが、建物が流されたり、塀が壊れたり、フェンスが倒れたりした箇所は、まだ随所にあった。

宿題の成果…

なんだろう・・・。
今年の正月は昨年と比べて日が短いのだが、割りと時間があったような・・・。
何処に行くこともないのはいつものことだが、なぜだろう、この静けさ。

電子回路へのチャレンジを試みているが、なかなか言葉がわからず思ったように進まない。
目標の35%を達成できたかどうかという程度だ。

そうそう、年末に原稿の依頼もあり、ほんとうはバタバタ指定なければならないのだが・・・。

住む場所を変わったということは、これほど時間の過ごし方を変えるのだろうか?