いろいろと言葉に引っかかってしまう。
最近、よく引っかかるのがNHKニュースの表現だ。
「先程、◯◯のニュースの中で、◻◻を☓☓と表現しましたが、ただしくは△△です。」
ひっかかる・・・
正しくは
「◻◻を☓☓と表現しましたが誤りでした。ただしくは△△です。」
というべきだ。
「☓☓と表現しましたが、ただしくは△△です」
では、「☓☓は間違いではないが、正確に言うと△△だ。覚えとけよ。」
と言っているように感じる。
違うだろ・・・。
いろいろと言葉に引っかかってしまう。
最近、よく引っかかるのがNHKニュースの表現だ。
「先程、◯◯のニュースの中で、◻◻を☓☓と表現しましたが、ただしくは△△です。」
ひっかかる・・・
正しくは
「◻◻を☓☓と表現しましたが誤りでした。ただしくは△△です。」
というべきだ。
「☓☓と表現しましたが、ただしくは△△です」
では、「☓☓は間違いではないが、正確に言うと△△だ。覚えとけよ。」
と言っているように感じる。
違うだろ・・・。
この土曜日に、今年4度目となる富士吉田市にいく。
夏の涼しさにびっくりした富士吉田市。
富士吉田市の近所の山中湖の映像が今朝のTVで流れていた。
この寒気で積雪だ・・・。
タイヤを替えねば、富士吉田に行けない。
さて、今日か明日でタイヤ交換をしないといけない。
どのタイミングで、タイヤ交換できるんだ・・・。
久しぶりにこの11月はきんぱくした1月だ。
毎週土曜日の空手の稽古も二回つづけてやすんでしまった。
往復4時間。この時間を作る余裕がない。
そして、次の土曜日、水曜日とまた仕事のヤマがある。
乗り切れるだろうか・・・。
先日、ボブディランがノーベル賞を受賞した。
そして、トランプ氏が大統領選で勝利した。
報道やSNSでは、本人を無視した、コメントが飛び交う。
それを聞く度、残念な気持ちになる。
たとえば、ボブディラン。
ノーベル賞受賞→ファン喜ぶ→ボブディランは沈黙を貫く→ノーベル賞主催者側はボブディランと連絡が取れないとあかす→その一方でボブディランの精神構造はノーベルに価値を見出さないとするファンの情報発信→ボブディランは自身のホームページから受賞の記事を削除→ファンは「ボブディランはノーベル賞に彼が喜ぶわけがない。さすがディランと歓喜する」→ディランは、沈黙は言葉を失っていた。受賞は光栄と表明する。そこで報道は終結。
「ディランは、沈黙は言葉を失っていた」が本当だとは、思わない。たぶん、「ノーベルに価値を見出さない」のだと思う。しかし、その態度をとり続けることに、①社会的反響が大きかったこと、②ノーベル賞に価値を見出さないという言動が過去のノーベル賞受賞者への失礼にあたると思ったのだと思う。そこで、自分に非ありとして、「沈黙は言葉を失っていた」と弁明したのだ、という印象を私は持った。もちろん、実際のところは知らないが・・・。
個人的に友達でもない限り、私たちが知り得るのは、人のオフィシャルな面だけだ。オフィシャルな面は、その人の人格の1つに過ぎない(私を含めて)。そんなオフィシャルな面だけをみて、人の行動を「あーでもない、こーでもない」と批評するのは馬鹿げている。
しらない行動を目にしたら「へー、こういうところもあるんだ」と感動し
思った通りの行動を目にしたら「さすが、○○」と感動する。
人は常に変化する。それが人だ。
他人の行動に大らかで、ありのままを受け入れ、自分の既成概念を疑い、修正して(再構築する)人を理解し続けようとする努力を、人類はした方がいい、と私は思う。非難すべきは、少ない情報で思い込みの人物像を仕立て上げていた自分ではないか。
トランプ氏についても、強くそう思う。
勝利の後の彼の言動を目にし、「あいつは、変わった」と斬り返すのは、残念の極み。
彼のそういった面を知ろう(発見しよう)と努力しなかった(マスコミのうすっぺらな取材)
そして、そういった薄っぺらな報道に一喜一憂してきた自分たちの浅はかさに問題があるのだと思う。トランプ氏に問題があるわけではない。
・・・と私は考えている。
先日、雲梯でハッとしたことを書いた。
今日もハッとした。
四角い電池(9v)。小学校のころ、ラジコンカーがその電池を使っていた。なかなか高い電池だ。記憶が確かなら、当時300円。だったような・・・。自転車こいで5分くらいの洋服屋に売っていた(なんで洋服屋に電池が売っていることを知ったのだろう。今思うと不思議)。
なかなか貴重な電池なので、電池があるか、ないかを試すために、電池の接点をなめたのを覚えている。電池があると、ビリッとする。痛い。
なければ、なんともない。
簡単な電池チェックをそうやってやれたのが9vの電池。
さて、今日9vの電池を風速計で使っていたが、電池がなくなった。
凄い久しぶりに、電池のチェックをしようと思った。
・・・しかし、怖くてできない・・・・。
子供はなんと冒険心にあふれているのだろう。
電池をなめれない自分を発見して、そう強く思った。
先日来、タイガーマスクが気になっている。
数話観たが、あの漫画は、発見に満ちていた。知らない間に無くしてしまった宝物を発掘した驚き。
ピンチの場面で、どこからともなく頭に浮かぶ効果音。
調子よくノリノリの場面で、どこからともなく頭に浮かぶ効果音。
自分の人生の中でそんなことが、ないわけではない。
どうやら、そんな効果音の数々の原点は、タイガーマスクにあったようだ。
全体背景が暗い。
漫画内容が決して明るく楽しいものでないから、その暗さに不思議はないが、背景の暗さは、まるで寝ているときの夢に似ている。人によって違うらしいが、私は夢はカラーでみるというよりも、白黒でみる。背景もなく物語だけが進むときもある。そうなる理由を自分なりに思いついている。タイガーマスクの背景の狙いも、きっとそれなりの意図があるのだろう。
物語は1969~1971年に放映されたようだ。当時の風俗が垣間見られる。興味深いのは、タイガーマスクがサポートする「ちびっ子ハウス」が野原の一軒家のような立地にある。しかし、タクシーで東京のプロレス会場にアクセスできる。昔の漫画をみていると、東京郊外の在りし日の状態を想像させて面白い。
オープニングの主題歌だが、楽器の使い方や編曲が、いまの音楽と比べて凝っている。しかも、凝っているのは効果音だけではない。主題歌を流している背景動画の場面に合わせた効果音が、主題歌を流している最中に入ってくる。キックした音、車が走る音。
音楽担当者、背景動画担当者・・・。多くの人が関わって、「あーでもない、こーでもない」と納得するまで議論していた(?)彼らの会話が聞こえてきそうだ。
半年前、戦前漫画の「のらくろ全集」をオークションで入手し、当時の漫画に触れた。
戦後、テレビ漫画創成期末期(?)のタイガーマスクい今触れている。
物語の構成や盛り込まれたメッセージやその表現法などが、その間、随分変わっている。
それから40年。
いまアニメを一生懸命みていないため、考察する情報を得ていないが、果たしてどうなっているのだろう。
土曜日の空手稽古の後、ひょんなことからタイガーマスク(漫画)の話を私が切り出した。
端緒は「虎の穴」だ。
虎の穴について、話すうちに、私の理解が少し違っているかもしれないと思った。
そんなことから、ネットでタイガーマスクの漫画を探してみた。
そして、1話、2話、3話と観ていたら、常々思っていたことを思い出した。
日本語だ。
漫画の中の言葉が丁寧だ。特に女性の話し言葉がきれいだ。いまのドラマやアニメにはない言葉遣い。今から50年前、子供達はこのことばに接して大きくなった。
今から、35年前くらいの「金八先生」でも、中学生の女子の言葉遣いも丁寧だった。
「○○だわ」「○○なのよね」・・・。
今は、そんな言葉を聞くこともない。
私のお気に入りのTV番組の1つのダッシュ村では
ものを食べてトキオのメンバーは、食べている最中に大声で
「これ絶対うまい」「うまっ!」「ん~ん、うまぁ~」。
子供達はそんな言葉に接して大人になる。
なんとも残念な気持ちになる。
ところで、こうした高度成長経済のときの漫画やドラマ、特撮もの、バラエティー番組をみていると、昔の風景や風俗が想像でき、面白い。そうした番組がいまではネットで世界中から観ることができる。上のタイガーマスクもロシア語のサイトで発信されている。
日本に来たことのない、外国人も、当時の日本の風景や風俗を垣間見る。
とても不思議な感覚だ。