気になること

先日、ボブディランがノーベル賞を受賞した。
そして、トランプ氏が大統領選で勝利した。

報道やSNSでは、本人を無視した、コメントが飛び交う。
それを聞く度、残念な気持ちになる。

たとえば、ボブディラン。
ノーベル賞受賞→ファン喜ぶ→ボブディランは沈黙を貫く→ノーベル賞主催者側はボブディランと連絡が取れないとあかす→その一方でボブディランの精神構造はノーベルに価値を見出さないとするファンの情報発信→ボブディランは自身のホームページから受賞の記事を削除→ファンは「ボブディランはノーベル賞に彼が喜ぶわけがない。さすがディランと歓喜する」→ディランは、沈黙は言葉を失っていた。受賞は光栄と表明する。そこで報道は終結。

「ディランは、沈黙は言葉を失っていた」が本当だとは、思わない。たぶん、「ノーベルに価値を見出さない」のだと思う。しかし、その態度をとり続けることに、①社会的反響が大きかったこと、②ノーベル賞に価値を見出さないという言動が過去のノーベル賞受賞者への失礼にあたると思ったのだと思う。そこで、自分に非ありとして、「沈黙は言葉を失っていた」と弁明したのだ、という印象を私は持った。もちろん、実際のところは知らないが・・・。

個人的に友達でもない限り、私たちが知り得るのは、人のオフィシャルな面だけだ。オフィシャルな面は、その人の人格の1つに過ぎない(私を含めて)。そんなオフィシャルな面だけをみて、人の行動を「あーでもない、こーでもない」と批評するのは馬鹿げている。
しらない行動を目にしたら「へー、こういうところもあるんだ」と感動し
思った通りの行動を目にしたら「さすが、○○」と感動する。
人は常に変化する。それが人だ。
他人の行動に大らかで、ありのままを受け入れ、自分の既成概念を疑い、修正して(再構築する)人を理解し続けようとする努力を、人類はした方がいい、と私は思う。非難すべきは、少ない情報で思い込みの人物像を仕立て上げていた自分ではないか。

トランプ氏についても、強くそう思う。
勝利の後の彼の言動を目にし、「あいつは、変わった」と斬り返すのは、残念の極み。
彼のそういった面を知ろう(発見しよう)と努力しなかった(マスコミのうすっぺらな取材)
そして、そういった薄っぺらな報道に一喜一憂してきた自分たちの浅はかさに問題があるのだと思う。トランプ氏に問題があるわけではない。

・・・と私は考えている。

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