2月の上旬から、連日報道の国有地の格安払い下げ問題。
さすがに「安倍総理、○○法案どうのこうの」と小学生に言わせる教育にびっくりした。そんなのあり得ない。
でも先日東北にいったときの朝、ホテルで見たNHK教育テレビの子供(小学生)向け日本語教室のような番組を見ていてハッとした。子供達は、古語をつかった大人の恋いの歌を楽しげにダンスしながら歌っていた。
きっと親たちは、我が子のかわいげな動作に目尻もさがっていることだろう。
誰も文句を言う人はいない。
しかし、子供達にはその言葉の意味は分かるまい。
一方、「安倍総理、○○法案どうのこうの」と子供達が言えば、そうさせる教育に大人達はびっくりする。なんちゅう、教育をしとるんじゃ。私もそう思った。けれど、「古語をつかった大人の恋いの歌を楽しげにダンスしながら歌っていた」子供と、子供の視点に立てば、何が違うのだろう。「安倍総理が日頃どんな言動をしていて、○○法案がどのようなものなのか」分かるわけない。説明されても周辺概念が形成されていないので、分かるはずもない。
あるいは、海外から来る要人を園児達が迎えて(動員され)、(あげく)歓迎の挨拶をさせる。子供達のかわいさに大人達は目尻を下げる。しかし、園児は社会的な背景なんてまったく知らない。大人達の都合で動員されているに過ぎない。
「安倍総理」にしても「古語をつかった大人の恋」にしても「要人の歓迎挨拶」にしても、園児の立場に立てば大人にやれと言われたお遊戯以上のことはない、同じだ。
例えば私。
「仰げば尊し」「ウサギ追いし」「あぶはちとらず」と暗記している文言。当時は子供ながらに、「仰げばおととし(なんだかよくわからんが振り返ると2年前・・・)」「ウサギはおいしい」「あぶは 血 とらず(蜂は血はとらんが、アブは血をとると言うはずなのに・・・)」などと勝手な解釈をしていた。しかし、年齢を重ねる過程で、なにかの機会に思い出し「あっ」と気づき広がる世界。このときの感動。
「親思う こころに勝る親心 今日の訪れ なんと聞くらん」、兄を亡くし両親の気持ちを想像し、吉田松陰の息づかいを感じた。
「田子の浦 うちいでてみれば白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」、歩いて旅をしているとき峠を越えて、突然眼前に広がる景色の感動。しぜんにこの歌が思い返される。
「吉野山 風にみだるる紅葉場は 我がふる太刀の血煙とみよ」
「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがままに はてし君かな」
・・・
「剣の理法の修練による人間形成の道」・・・
高校1年生の現代社会の科目で教師が問うていた「仁とはなんぞや」
英語の歌・・・。
よく分からないまま覚えても、覚えていればそれを後に吟味し、人生を良きにつけ悪きにつけ豊かにする。
大人達は経験者の物差しを使って、未経験者の無駄を省こうとするあまり、未経験者の人生が薄っぺらものにしてしまっているのではないだろうか?
一連の報道+NHK教育テレビの日本語教室を見てそう思った。
「安倍総理、○○法案どうのこうの」を年をとって思い出し、なんという幼稚園に通っていたのだろうと、身の毛がよだつのも学びだと思う。○○法案がなんなのか、年をとって改めて吟味するのも学びだ。どの幼稚園にいくことになるかなんて、どのような親から産まれどのような地域に生まれ・・・、子供には選びようもない運命だ。運命を受け入れ、その中で日々の楽しみを見つけられれば、それでいいじゃないか。