この歳で気付き始めたこと・・・

学生時代に勉強する
ということだが、最近、我が身を振り返りもしかしたら・・・と思うことがある。

ときどき、大学生との会話の中で「授業でやっていないからわかりません」ということばが返ってくる。98年慶應大学の学生さんとの会話で「パソコンを組み立てることは授業でやっていない」という返答がきたことがある。07年のヒマラヤで東大卒の方に「リモートセンシング」についてどれくらい知っていますか?と尋ねたら「授業で一通りやっているので、だいたいは分かります」との応えが帰ってきた。そういった言葉を聞くたび、酷く違和感があった。
「なんだそれ?」

私が大学の授業を思い出し、そのことで得たことといえば、
教養の授業で知った学問という世界観(こんなことを真剣に考えている人たちがいるのだという新鮮な驚き)
指導教官とのやり取りを通した物事の考え方
学びは気付きで始まり、それ以降の具体的な学びは自己修練だった思う。
具体的な学びを誰それに教わった感覚はない。

私にとっての大学という枠組は、大学本来の教育機会以外の部分が大きい。「自分で考えたことを、実行に向けて計画をたて、それを実現し、達成する醍醐味」を知り、修練を重ねる時間を提供してもらった尊い枠組こそが私にとっての大学だった。

そして、振り返ると高校生のとき
夜明けとともに目が覚めて、くたくたになるまで部活をして、暗くなったらギターを弾いて寝る。試験期間になると、2週間位勉強してはみるが、いまさら理解が進むわけでもなく、成績は低空飛行。宿題がだされても、数学は、問題集の最後のページをみながら、解法が理解できそうなものは適当に写し、理解できないものは白紙。英語は、訳せないとして、手を付けず・・・。

中学のときは、高校進学への具体的なことはなにも考えず、ただ兄貴の歩んだ道の後をつけ
高校のときは、大学進学への具体的なことはなにも考えず(考える概念がなかった)、ただ兄貴の歩んだ道の後をつけ
大学のときは、その後の人生を考えず、ただ夢中になれることに没頭した。
そして、いま50を越え、いまだ脳天気なままだ。

皆そんなものだろう。そう思っていた。
けれど、それを最近疑いはじめ、もしかしたら自分は「普通でない」のかもしれないと、いままで思い込んでいたことに疑問を持ち始めた。そしたら、いろいろなことの辻褄が合い始めるような気がする。

だから、「大学で学んだから知っている」、「大学でやっていないから知らない」と堂々と話す人々こそ、真面目に忠実に、やるべきことをやってきた理想の人なのかもしれない。そんな人々に魅力を感じなかったが、それが大学生になっていく人の標準なのかもしれないと思った。

もしかしたら同級生は、高校では普段から、予習・復習をして、宿題をこなしていたのかもしれない・・・(皆勉強していないと思っていた)。
もしかしたら同級生は、大学では授業の復習をしていたのかもしれない(そんなことをする人はいないと思っていたが・・・)

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