大学卒業して民間企業を辞めて、ひたすら本を読んで過ごしていたとき、これからの人生を思うと、眠れない不安にかられる日もあった。これから俺の人生はどうなるのか・・・。誰か知ってたら教えてくれ!ーーー!。本当に絶叫したい夜もあった。
そんなとき、学生時代から思い入れのあった長良川の流れる美濃市に「森林文化アカデミー」という学校ができ、そこで「カリキュラムにGISを入れるので、それを教える人材を探している」ことを、岐阜県庁に努める大学の先輩から聞いた。27才のときだ。そのとき、残念・・・、俺の身の丈以上の話だ・・・。チャンスが手のひらから転がった気持ちがした。
それから3年ほど経ったころ、まだ森林文化アカデミーでGIS教育を担当する人事が決まっていないことを耳にした。27才のときには、自分には過分の職だとおもったが、それ以降、慶應大学研究員・社会人大学院(98-99年、愛媛大学社会人大学院に所属)を通し、教育体系を構想できる気がした。再度この話を耳にしたとき、これだ!と思った。
そんなころ、たまたま、学長予定者の熊崎先生が愛媛に来ることを耳にした(当時社会人大学院の卒業年度)。熊崎先生の知り合いの私の愛媛大学での指導教官(名古屋大学のころからの公私に渡る師匠)に仲介をお願いし、熊崎先生と愛媛の久万高原町のプレカット工場で立ち話をし、熊崎先生より「情報が出来るやつはたくさんいるが、山ができるやつはいない」「山が出来るやつはいるが、情報ができるやつはいない」。「君は山ができて情報ができそうだ。一緒にやろう」と声をかけていただいた。
そして、あれから20年近くたち、あのとき選択した人生の延長線に満足している自分がいる。
こうした満足した人生(毎日は苦しいことばかりだが)の原点は「岐阜県立森林文化アカデミー」だ。県民税で学校を支えてくれた岐阜県の皆さんには本当に感謝している。そして、それ以上に「岐阜県立森林文化アカデミー」を構想くださった元岐阜県知事の梶原拓先生への感謝は言葉で言い尽くせない。
森林文化アカデミー在職時は、まったく雲の上の方で、話かけることさえタブーだと思った。しかし、たまたま同じマンションに住むこととなった(知事を退任された後の住居)。初めてエレベータでお会いしたとき、直立不動で震えながら感謝の言葉を伝えた。以降、ときに私の書物(かきもの)や作った野菜・採ったアサリなどをお届けさせていただくうち、たまにお部屋にお招きいただき、興味深い話を伺うこともあった。お話をする度に、先生の好奇心と、異論があっても「人の話を最後まできいてくださる」ことに感銘を受けた。
その梶原先生が、2017年8月29日になくなった。
本日10月26日、先生を偲ぶ会が岐阜で開かれ参加した。
先生のご冥福をお祈りいたします。