今日、昼から有給休暇をもらい自動車学校に行って来た。50人くらいの入校者がいたが、おっさんは、そのうち3人。牽引免許のオッサン一人と自動二輪のオッサン(私を含め)2人であった。50人くらいの一斉ガイダンス。気になる学びがいくつかあった。
まず50人を4つのグループにわけて1グループから4グループの順に、会計・写真撮影・視力検査を行う。それらは別の教室に移動して行い、終わったら元の教室に戻ってくるというもの。その後、適性検査だ。
あらかじめ、学校側ではグループ分けをしており、私達は名前を呼ばれ、前に書類をとりに行って、会計・写真・視力検査を行う。なので、1グループの最初に呼ばれた人間と4グループの最後の人間とでは約50人分の自分が呼ばれるまでの”間”ができる。これ、私が授業をする時「この間」がとても気になっていた。名前を呼ばれないものにとっては、無意味に過ごす時間がとてつもなく長く、手持ち無沙汰になった者から「だれ」始めてしまうからだ。また、会計終わっての写真撮影や視力検査では、これまた前の人が終わるまで「なにもしない」時間が多い。この「待ち時間」を私は自分の授業ではとても気にする。もしも自分が学生の立場だったら時間がもったいないと感じ、なんでもいいからなにか有意義なことをさせて欲しいと思うからだ。という訳で、授業をする立場でものを考えると「この間」にとても苦しんできた。ところが、今日、授業を受ける立場になると案外「この間」は気になるものではなかった。状況を見れば分かるし、しょうがないし、この間は学校側の段取り問題でもなさそうだし・・・。これは大いに学びになった。そんなに私が授業をするとき、神経質にならないでもよさそうだ。
適性検査の試験用紙を配るときもそうだ。教室の右端先頭が用紙を手にしたときと、左端最後がてにしたときには「間」がある。この間はなにも生み出さない。だから学生にとっては無駄な時間だ。授業料をこの空白の時間のために払っているわけではないので、配布の時間は極力スピーディーに。しかし、配布される立場に立ってみるとこれまたたいしたことではないことを発見した。状況をみればしかたないではないか・・・と。だから、これについても神経質に考えなくてもよさそうだ。
また話す内容がとても薄いのに、やけに時間をかけて冗長なしゃべりをする。目の前に資料の説明をしているだけなのに、しかも読めば分かるだけなのに、ほんとうに冗長なしゃべりだ。正直私はその喋りができない(これが不思議だが、文章を書くときには冗長になる)。単刀直入にポイントを話すタイプなので、そんなしゃべりの内容は一言で終わってしまうではないかと感じている。しかし、今日この冗長な話をききながら、たまにはこの喋りがよいときもあると感じた。冗長なことに半分耳をかたむけながら、他の資料に目を通したり、資料に書いてあることを元にして「関連する事項を想像」したりして、戻ってきたときには、まだ同じ話をしているということがあったからだ。そして思った。おそらく、話の筋道があって、はじまり⇒おわりまで一貫しているメッセージがあるもの(話を聞き流すと流れが分からなくなって理解がとまってしまうようなもの)は、冗長な話をするには向かないだろう。一方、一つ一つのトピックには関連がないぶつ切りの話では(話を聞き逃してもついていける)適当に冗長なほうがいいのだろう。そんなことを感じた。やはり、ときには他人の授業を受けるのは本題以外の部分でも学びが多い!そして、先日の岐阜シンポジウムの多くのスライドを削った経験と、今回の自動車学校の冗長な話で、これからの学会発表の発表を上手にこなす光明が見えた。
さらに、隣に座った自動二輪のオッサン。38歳。ガイダンスの「間」で話をはじめて分かったこと。このオッサン、パンチパーマでかなり顔が怖い。持っている車のキーにはベンツマーク。その彼が、免許をとったのは28歳。わりと遅い。常識ではありえない感じだったが、話をきけば、19のときから10年間、ずーっと「無免許」運転で、すこし落ち着いてきたころ「そろそろ免許をとらないといけないなぁ」となったとのこと。さらに、今回は大型自動二輪の免許までを希望しているが、すでに1500ccのハーレーを購入し、さらに「友達に」「おい行くぞ」といわれて何度もツーリングにいっているとのこと。なるほど・・・。こんな人もいるのだと感慨深い。
車校はいろんな人がいる。
中身が無いのにゆっくり話すのは最低のレベルの人にあせているだけですよ。
元塾講師の経験より。