その仕事へのひた向きさから、先日、「サムライ」といわれた。JICAの研修でのことだ。確かに、サムライが理想とするものを自分の理想としないでもない・・・。士は己を知る者の為に死すだとか・・・。さて、何でそうなるのだろう。自分でも良く分からなかったが、今日、テレビを見ながら思い当たるところがあった。
1995年の3月のある日曜日、当時名古屋に住んでいた私は、実家に帰っていた。理由は、もうじきアメリカに数ヶ月出張する兄の壮行会をするためだ。伯父も一緒だ。兄が購入してまだ一年も経っていないパジェロは5人乗り。今日の参加は全部で6人。子供の頃から兄と仲があまりよくなかった私は、いいよ、いいよ、とパジェロに3列目のシートを作り居心地わるく座っていた。(ちなみに、そのことがある数ヶ月前からあることに気づき、兄の存在にとても敬意を表し、唯一無二の存在として感謝の気持ちをいだいていた。もちろん、直接つたえるメンタリティーをもっていなかったが、とにかく、兄にかけた迷惑をなんとか償いたいと思っていた)。そのときの道中、カーラジオからは大黒マキの『ラララ』が流れていた。その約二ヵ月後、異国で兄は帰らぬ人となった。1995年のゴールデンウィークのことである。
今日、家に帰りテレビをつけたら「懐メロ」がやっていた。4時間番組だ。小学生・中学生・高校生のときの情景が思い出され、おもわず、仕事もせずにそのまま聞き入ってしまった。そしてあるとき、「テレサテン」がでてきた。映像は1986年。私が大学1年生(たぶん)のときの映像だ。
テレサテンの映像を見た瞬間、頭は自然に演算をしていた。テレサテンは1995年5月になくなった。忘れもしない。なぜなら、私がそのことを知ったのは兄の葬儀に出席するために乗っていた飛行機の中でのことだからだ。兄が死んでしまった2日後、テレサテンは亡くなっている。
映像中の彼女はとても元気だ。しかし、あと9年しか命がないだなんて、誰が知っていようか。とても元気な姿の彼女。とても後9年でお迎えがくるとは・・・。
テレサテンの映像を見て以来、1995年を境にして、「これは兄貴も知っている曲だ」「これは兄は聞いたことがない曲だ」。そんなふうに、テレビを見るようになった。
そうしていると、兄貴の日本での葬儀のときのお袋の言葉がよみがえってきた。「泰之ももっと生きたかったろうにぃ・・・」というため息の中で発せられた言葉だ。その言葉、ときどき、日々の生活でもよみがえる。鮮明に・・・。そしてその言葉が頭に響くたび、「兄貴の分も太く生きてみよう」という元気が沸いてくる。たぶん、太く生きようとするとき、私には2人分のエネルギーが沸いてくるのだと思う。それが、私を「サムライ」のようにするのでは・・・。
さて、ときおり街角から「ラララ」が流れてくると、家族での食事会での往路のパジェロの3列目のシートを思い出し、元気な兄貴を思い出す。「記憶」これは私の体脂肪を燃やす最高の触媒のようだ。
しかし、不思議だ!エネルギーは2人分なのにぃ、食事は一日2食で、2膳だけ・・・。どうなっとるんだこの体。