昨日・今日で東京出張していた。昨日の朝から今日の夕方まで、合計5件のアポをとって割りと精力的に仕事(?)をしてきた。これまでヒマラヤに集中するあまり、自分の得意分野がおざなりになっていたので、その挽回の為の種まきだ。自分の立場でこんなことに感心があるのも不思議だが、いくつかの「ビジネスチャンス」の種まきもしてきた。
さて、東京というのはやはり、すむには良くないが、いろいろ刺激の多いだ。
私が昨日泊った宿。ロビーには外国人ばかり。英語が聞こえてきたし、フランス語も聞こえてきた。はたまたエレベーターで一緒になった若い女性は東南アジア系のスレンダー美人だった。そのホテルの隣の交差点では、ワンカップ大関を2カップ飲み干したオヤジが交差点の隅に腰を下ろし、ラジオを聴きながら夜が更けるのを待っていた。銭湯を発見するため、南千住探検をしていたときに、一泊1900円の「宿」の前を紙袋をもって、うろうろしている60過ぎたと労働者がいた。きっと、今晩の宿を「贅沢しようか、我慢しようか」悩んでいたのだろう。さらには、路地裏に広がる「安宿」、『全室カラーテレビ完備』という広告、「二畳部屋 ○○円、3畳部屋 ××円、4畳部屋 △△円」そんな料金設定が覗き見れるホテルのロビーもあった。ロビーの奥はひっそり静まり返り、青白い蛍光灯だけが、静かに木製の廊下を冷たく照らす。よくよく見てみると一泊1000円の宿もあった。
この日の当たらない南千住、地味な南千住。そこで、人知れずその日暮の生活をおくり、誰に見取られることなく、どこかで死んでいく人生を送っている人が多そうなこと。彼らに帰れる場所はないのだろうか。もしくは、帰る場所ばかりか、帰れない理由もあるのだろうか。私の妄想力は絶好調に働き始める。
「津軽海峡冬景色」『上野発の夜行列車・・・』とあるように、上野は東北と東京を結ぶ起点なのだろう。その上野にちかい、この南千住。きっと、家族を置いて出稼ぎにきた人々が最初に降りた町、上野。その上野界隈では、東京のことがよくわからなため、舞い降りた周辺で職探しをすることになったのだろう。そんな人がうごめいていた町、もしかしたら、いわゆる「部落」だったもかもしれない。いまwikiぺディアで南千住をしらべたら、そこには「首切り地蔵(江戸時代の処刑場)」や「投げ込み寺(江戸時代 遊女の遺体を放置した寺」などがあり、江戸時代の 木賃宿の宿場町として始まり、いまに至る町だそうだ。そんな木賃宿が、きっと東北からの出稼ぎ労働者を吸い込んで行ったのだろう。
家族に仕送りをと思い、出稼ぎにきた労働者も、仕事がうまくいかず、仕送りもママらず、そのうち家族への音信も滞り、帰るところをうしない、かろうじて自分の命を維持する生活を続けている60代、70代の人々が、いまうごめいている。そんな感じの街だった。
そんなことを思うと、インターネットカフェ難民などと世間がいうが、先日、石原慎太郎がいったように「もっと安い宿はいくらでもある」。彼ら「ネット難民」と呼ばれて悲劇の主人公のようにスポットが当たってる人種がいるが、なんだか南千住の宿を探検すると、ネット難民は「悲劇の主人公を演じている」ひとつの若者のファッションではないだろうかと思わざるを得ない。もっと無言で、もっと重い背景を背負った、しかも発言する権利があることさえ理解していない、日本の高度成長を影で支えてきた、老人達がこの日本に多数いる。そんなことに思いを馳せる町、南千住。次回は2000円のオーダーの宿にチャレンジして、さらに潜入取材を試みようと思う。
あさ、大衆食堂で朝食をとった。自分でご飯やおかずを注文するタイプの食堂だ。右隣のカウンターには、朝から一杯やっていた仕事帰りだとおもわれる二人組のオッサンがいた。一方、左側のカウンターには5つの空席を挟んで会話する二人の60くらいのオッサンがいた。その二人のオッサンの会話が聞こえてきた。その座席配置からすると、別々に食事をとっていたオッサンが、何気に話かけて、今日始めて話をしている二人だろう。
「どうも○○は、さきの「西南の役」で西郷隆盛と戦い、戦功があったということで多くの褒美を賜り、そこで”ひと財産”できたということだけど、人生、本当になにがあるかわからないねぇ。まぁ、俺なんかも人生本当に何があるかわからないよ。どれだけ生きられるかわからないけど、これからどうなるんだろう」「なにぃ、まだまだ、これからじゃぁないかね」「なに、日に日に体が弱っていっているのを実感してね、どうなるんだろうねぇ・・・」
一方、霞ヶ関ではテクノクラートの官僚達が小走りに行きかい。渋谷・新宿・池袋では若者達が着飾り闊歩している。地下鉄には無表情なOLやサラリーマン。
岐阜のような均一さがなく、このドロドロ、ごちゃ混ぜになった人間模様が、私にとっての東京の魅力なのだ。