最近、本を読む時間ができた(ヒマラヤの報告書はまだだが・・・)。自分の中では解決済みだが、それを学生についたえようとしたとき、表現にこまるときがあるので、なにか「参考」になるものがあるのかと、読むのである。そんな中、ヒットした本がいくつかあった。というわけで、いま活字が頭の中に入りやすいモードになっている。
本は、いま読むか読まぬかはおいておいて、買いたいと思ったときに買え。そう教わってきた。若いときはあまりピンとこなかったが、今は実感する。なので、割りに家にも職場にも「本棚」には読んでない本もいくつもある。
あるときは、といってもいまもそうだが、本棚においてタイトルを見ているだけでも本の内容が想像できるようになってくる。実感としては、本を買った後も、いろいろ本を買って読んでいくうち、まだ読んでいない本があっても、読んだ本で引用してあったりすると、読んでない本の雰囲気がわかる。本を買ってから、その後いろんな知識を増やしたりしていると、本のタイトルから大体内容を想像できるようになる。そんな具合だ。
そんなわけで、読んでいない本を見ながら、読書モードになっている今、手に取った本がある。空手の達人、大山倍達の「強く生きたい君へ 我が空手哲学」である。
「空手バカ一代」で彼の大体の話は理解していたし、漫画ではあるが、いろいろ思うところがあった。あの漫画は良本だ。私の理解である。加えて彼の著書を読んでいたら、彼がいろいろ考えていたことを実感し、少々驚いた。こんな文章が目に留まった。
「本能的な動物の世界は、自然のルールによってバランスを保っているが、人間社会は、理性的なルールをもつに至った。このルールが礼である。だから、礼は、本能や自我としばしば対立する。ルールは、こちらのしたいことをさせてくれない。ここで私欲に従ってほしいままに生きれば、失礼、無礼、非礼の一生を送り、人の世から排斥される。つまり、人とともにあることができなくなる。
だが、私欲の強い人ほど、孤立しては生きてゆけないのである。だから、この世に私欲によって生きようとすることは、本質的に矛盾していることになる。」
この文章、人それぞれに解釈する場面が違うが、なかなか、私はこう整理できていなかった。論理の飛躍もあるように思うが、それを補ってもあまりある、整理の仕方で読み進むのが楽しくなった。