長髪再び?

もうここ8年くらい、私は坊主頭だ。

あれは7年前の秋の日だった。

もう髪の毛が少なくなったといえども、手で髪をすいたとき、指と指との間に流れる髪・・・。そんな感覚も、残りの人生で今日が最後だ。また、人前で恥ずかしい思いをしたとき、デコを覆う髪が紅潮した顔を隠し、恥ずかしさをごかませた。もう、これからはそんなごまかしはきかない。・・・。家から床屋に歩いていく間、日が落ちるのが早くなった秋の日の夕、空を仰いで、明日からの毎日をシミュレーションしていた。

「今日はどんな髪にしますか」
「坊主・・・。5厘お願いします」
「えっ、坊主ですか。坊主でいいんですね」
この親父、恥ずかしいことを何回も言わせるなよと思いながら
床屋の親父のバリカンに頭をゆだねる。

あれからもう8年たった。もちろん、指を流れる髪の感覚をあじわうことは二度と来ていない。また、なにがあろうが、生身の頭と顔である。自分の気持ちを100%そのまま頭皮と表情が表す。そうして生きていた。

ところが、ここ2週間くらい懐かしい感覚が・・・。

長髪で眉毛を前髪が覆うぐらい長いとき、そう、紅潮したデコを髪が覆っていたころ、髪の数本が視界に入ることもあった。そんなときは、髪をしたから上にすいて、視界の髪を追いやる。あの感覚があるときがある。

もちろん、いまでは髪をすくことはできない。が、どうやら一本、髪が視界にはいるときがあるのだ。あーーー、もう一生めぐり合うことはないと思ったあの感覚。ようこそ!

週に一回はバリカンを通している頭髪も、まさか、なんども刈られる危機を乗り越えて、10cm近くに伸びたのか?などと一瞬思う。しかし、そんなことは、ふさふさの髪がもどるよりも確率が低いことだ。まぁ、ゴミが睫毛についたのだろう。・・・と数日やり過ごしていた。それが違っていた。

犯人は、眉毛だった。眉毛が西郷隆盛のような長い眉毛が一本、出てきたのだ。これは喜んでいいのか・・・。確かに、歳をとるごとに眉毛は薄くなり、私の眉毛は、いまでは立派な公家眉毛だ。そんな眉毛に、野武士のような荒々しい眉毛が!・・・しかし、一本。

耳や眉毛は、若い頃には毛穴の世代交代も早いため、それらはある一定の長さになると抜け落ちるらしい。ところが、歳をとると、世代交代するエネルギーさえない毛穴は、世代交代をしないで、そのまま毛を伸ばしつづける。そのため、歳をとるとコウテイペンギンのような眉毛の人が出てくる、という話を聞いたことがある。

つまり、私のあの懐かしい感覚のぬか喜びは、老化の印。はて、喜んでいいものか、悲しむべきか。願わくば、老化でもいいので、公家眉毛を何とかしてくれるくらい全ての眉毛が伸びるといいのだが・・・。今はただ、毎日、その眉毛を親指と人差し指でつまんで、指の腹で流れる睫毛の感触を実感している。

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