地球温暖化という観点からすると、おそらくインドネシアで山火事が起きている地域に住む人々は加害者であり、被害者は世界中の人というところか。
しかし、現場でつつましく生きる人々の生活を垣間見ると、人として地球温暖化よりも大切なことがあるように思った。すべては人口が増えすぎたということが問題の根源なんだろうが、狭い地球の人口を増やす技術を確立したのは、先進国。おかげで、森林が大きくなくなり、農業生産があがった。医療も高度になった。
地球温暖化について真剣に議論しているのも確かなこと。
エコなライフスタイル・省エネカー・省エネ家電の開発も活発。
しかし、インドネシアで妄想した。
地球温暖化について”とことん議論”したその日の会合の後。「今日はいい会議だった。これでなんとかなるだろう。じゃぁ飯でも食いに行くか」。会議の後、そんなこともあるだろう。さてそのとき食卓に並ぶのはなんだろうか。たとえばワイン。取っておきのワインは、どこの国からだろうか。そのブドウは森林を切り開いて、焼き払って畑にしているのではないだろうか。チーズ。そのチーズを作った牛乳は、森林を切り開き、焼き払った牧草地からのものではないか。小麦でも米でもそうだ。
さて、きている服はどうだろう。ウール。このウールのもとになった羊は・・・。3年前のニュージーランドを思い出す。亜熱帯の森が広がり直径が10m近くの巨木が乱立した森は、イギリス人の入植によって丸裸にされ、いまでは牧場が地平線のかなたまで広がる。
森林を切り開いてきたおかげで、その国の人々は暮らしを守ってこれた。そして私たちは、いまでは”名産”となった世界各国から取り寄せた”えり抜き”の食材に舌鼓をうつ。
携帯電話でもそうだ。レアメタルといわれる金属を南アフリカから化石燃料を使いまくって日本に持ってきて、エネルギーを使いまくって製品にしている。車でもそうだ。化石燃料をつかいまくって日本にもってきて、エネルギーを使いまくって鉄板にして、エネルギーを使いまくってプレスして車にしている。自転車だってそうだ。
近くの森で家を建てるという運動があるようだ。しかし、仮に近くの森から伐った木で家を建てたところで、エネルギーを使いまくった屋根・外壁・断熱材・・・。エネルギーを使いまくった電動工具でつくる。果たして、それの環境負荷の軽減はいかほどか。家を作らない、中古住宅、改築・冷暖房は我慢。そのほうがよほど環境に負荷がすくない。
エコだ・省エネだなんていうけれど、結局、環境につけこんだ商売で自分が儲けようとしているだけではないか。
インドネシアの人々は世界からみたら、地球温暖化の加害者だけれど、歴史的にいっても現時点でいってもインドネシアの人々は被害者である。私たちは地球温暖化の原因となるエネルギーをつかいまくって現在の生活を築き、その恩恵を受けてきたし、いまも受けている。つまり最大の加害者は、私なのだ。
私は、いまでも「美味しいもの」「便利」「快適」に貪欲に生きている。しかし、インドネシアで観てきた人々は「美味しいもの」「便利」「快適」などをもとめているわけではない。ただ、家族を成立させるだめだけに野をやき、木を伐っているだけ(違法伐採と取り締まれているが)。
今回のインドネシアではそんなことを大いに感じた。
そして、自分が日本人に生まれて「美味しいもの」「便利」「快適」をのぞめる幸せを同時に感じた。ただその幸せは私が気づいたものではなく、歴史的に多くの犠牲によって自分の豊かな基盤が出来ていると思う。
やはり幕末の志士、世界大戦の犠牲によっていまの自分の豊かさがあるのだろ思うと、盆にみたテレビの
「今より攻撃をかける。・・・山河破れたりと言えども、いつの日か国民が諸君らの勲功を称え、諸君らの霊に涙し、黙祷をささげる日が必ず来るであろう。 安んじて国に殉ずるべし。」を思い返さずにはいられない。
ん!今朝はゆっくり読ませてもらいました、私なりにわかる気がします。どっぷり文明の利器に浸かった(ってしまった)生活、このパソコンの便利さもかみしめつつ・・・。
難しいのが、じゃぁどうしたらいいかですよね。私には考えも及びません。
ただ、人を変えようとか動かそうとするまえに、自分を変える、自分が変わる。まずは自分を清貧にして始めて見えてくるものがあると思いつつ、オークションでナナハンを見ていたりする自分に苦笑しています。
この自己矛盾が生きている証であり、人生なんでしょうね・・・。