言いえて妙

昨日の空手。感動した。

私の初心者クラスのあとの上級者クラスでの指導の言葉。

正拳の力をいかにつよく出すか、そんな話での出来事。

蛇口がある。蛇口にホースがついている。蛇口をひねってホースから水を出す。そのとき、ホースの途中を足で踏んだらどうなるか?

水がでなくなる。

それと同じで、正拳も大地から足、足から腰、腰から型、肩から肘、肘から拳と力が伝達されているときに、どこかに力がはいるということは、ホースを踏むと同じ事。0の力(力みのない状態)から100の力にするのは0から徐々に100になるのではなく、0から突然100にすることが必要。
ここまではとくに感動することもない。フムフム・・・という感じ。感動したのはその次だ。

では、100はどこで100にしたらいいのか。「フィニッシュの瞬間か?」「ちがう」「フィニッシュのときは既に0」
ここが感動のポイントだった。

いま連載の原稿で、「仕事は8割終わったら、視線は次に」と私は表現していた。スキーのコブの斜面を下るのと同じ。足元の対処は感性と直観。考えるのは、先の先のコース取りを考える。そんなことを言っていた。

フィニッシュは0は、私が表現したかったものそのもの。

これぞ万物の法則か?ちょっと感動。

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