大河ドラマにはコリゴリしている。
録画をするという週間のない私は見だすと、きりがなく、毎回をみるために日曜日の行動を制約されてしまうという初歩的なところから抜け出せない。ところが、昨日の大河ドラマは途中まで見てしまった。なぜなら「兵庫県知事からクレーム。汚い・・・」というコメントが初回で発せられたようで、そんな番組はどんなんか?そんな好奇心からだ。
見たところ、まったく問題ない。むしろ好意的に思えた。風呂にはいることもなかったあの頃だ、顔は汚れているし、服も汚れている。セットもお金をかけて街並みを表現しようとしている。その時代に活きた人々のイブキが感じられる番組というのは、とても好意的に受け止めた。兵庫県知事がユートピアをみているだけだという私的結論だ。
しかし、2つの問題点をまた同時に見出した。
一つ目。リアリティーを追求するその番組に、平成に生きる私達が当時の人々の生活に思いを馳せる。それはノーだ。歴史にのこる、文字の残る生活は、時の為政者の視点だけだ。つまり1000年後の日本を、現代の政治家を中心とした人々の人間ドラマで想像するようなものだ。親子世襲の政治、そんな政治家の恋愛物語、そんな政治家の子育て論で、果たして平成を描写できるのだろうか?できるわけはない。市井の人の生活はそんなんじゃぁない。私たちは、平家物語、源氏物語などを見て当時の人の生活を感じて「あぁぁ~」などととロマンチックになるが、それは違う。だから、平清盛の楽しみ方はいかにリアリティーを追求したとしても、当時の人々の生活を障子の間からみているわけではないということを自覚して楽しまないといけない。
2つ目の問題は、演出だ。あの演出は現代じみている。あんなに大きな声でお互い怒鳴り合って議論するだろうか?ありゃぁ現代劇だ。平安時代に居合わせていないのでなんとも言えないが、すくなくとももっと個人を殺して自制していたのではないだろうか。おそらく時の為政者は、大陸から流れてきた氏族だろうから、つらい思いも身に染みてて、敗者の気持ちも理解できる人々では。あんなに自己主張(自分が絶対正しい)という感覚でものをいうように育てられてきていないと思う。演出があまい・・・。
そんなことを思った。
汚いのは、正しいでしょ。
僕らがガキの頃でも今より汚かった。
演出はわかんない。
でも、完全なリアリティ求めたら、言葉もわかんないんじゃないかな。
多分、何話してるかわかんない。
今の日本語とは別物じゃないかなぁ。
leeさん、こんにちは。
まさにsame generation!
時代考証を踏まえた演出ということが気になるところです。
潮干狩り情報、教えてね。