あの日、私は旧職場の副学長室で、今の職場の移籍に関する引き継ぎ話で副学長と対面していた。
軽く地面が揺れたのを記憶している。
そして、1Fの事務室の課長が副学長室にやってきて、すごく大きな地震が起きたようです・・・。
東北地方太平洋沖地震を知った瞬間だ。
東日本大震災から今年で5年。
今年も職場の危機管理情報車両を運転し、仙台から久慈までを撮影した。
(FBのアカウントを持っていないと見れないかもしれません・・・)
震災復興で26兆円が使われる予定。
26兆円といったら1人26万円に値する。
この時期不謹慎なのだが、最近こー思うようになってきた。
たとえば、千葉かどこかの液状化が起きた地区での地盤改良(杭打ち)に公的なお金が使われる話を聞いた時、私はこう思った。
液状化が起きる場所は、おそらく人が住んでいなかった干潟や埋立地。
そこに建つ戸建て。近隣の住宅と比べ値段も幾分も安かったのだろうと思う。
安い買い物ができたというメリットを享受していた住民。
それが、被災して家が傾いた。これは、安い買い物の裏腹にあるリスクが実現したというだけの話。
そーゆー話を聞いていないというのは、個人の生活力のなさであり、これまでの人生のなかで、そーゆー話を素通りさせてきた甘さが表面化しただけの話。もちろん、家が傾いたことを気の毒に感じるが、自己責任で対応すべきでは?
もしも、公的なお金で地盤の改良が行われ安全度が高まるのなら、その住宅に住む人は、家を買った当時の相場と購入価額との差額を現在価値での払うべきでは。
被災地の復興もそのように思う。
今日の報道を見ていると、あまりに災害とその復興の努力を賛美している。
津波に飲まれたところにまた帰ってきたい・・・。生まれ育ったところだから・・・。
それは、いいけれど、そのセンチメンタリズムは自己責任で実現してほしい。本当は、人が住んではならぬところで住んでいたのだから。そこに住んだのは、「便利を優先」「安全なところは猫の額くらいしかない」ので「人が住んではならないところに住んでいた」(過去の津波で被害を受けているのだから)
被災地を二日間駆け抜け、土木工事の活気に湧く東北を見てきた。
これから人口減少で消滅していく町が多くなるところに持ってきて、26兆円が使われる。
私は、その3分の1でも2分の1でも、南海トラフ巨大地震に備えるために使ってほしいと思う。そのためなら26万でも、50万でも受け入れられるが、いまの東北復興で26兆円というのはいかがなものかと被災地を見て感じ入った。