違和感

こんな情報発信を聞いた。
「どうしてプロに無償で仕事依頼しちゃダメなのか?」

私は違和感を感じている。

お金をもらうことができるのがプロ、なのだと思う。
「プロと名乗る人がお金をもらえるわけではない。」

お金をなぜもらえるのか?
それは、そこに価値を見出してくれる人がいるから、でしかない。

人は農業・水産業に従事しない限り、お金がないと明日生きていく術がない。
だから、現金を必要とする。
現金を得て、食料を入手する。
人は、食料を入手する(自分+家族)ために現金収入を得る。そのために仕事をする。これが根本。
贅沢な生活をしたいというのは、余剰の話。

プロに仕事を無料で依頼する。私は、それはあってもいいと思う。
お金を得なくても、その仕事をしたい人がいる。
余裕のある人は、その仕事に価値を見出せば、仕事をしたいと思うこともある。
そういう人への依頼が、仕事を無料で依頼するのだと思う。

プロに仕事を無料で依頼するな!に賛同する人は
本当の意味でのプロではなく(その人の仕事に価値を多くの人が見出してくれる人ではなく)、プロという幻覚(自負)をかろうじて維持している人ではないだろうか・・・。

価格は、需要と供給によって決まってくる。
供給が少ない時は、仕事の単価は高くなる。
しかし、供給が多くなれば、仕事の質によって単価は変わってくる。
となれば、質の低い仕事では生計支えることはできなくなる。
その結果、以前はプロであっても、いつの間にかプロではなくなる。
それを自覚できないとき・・・。
「プロに仕事を無料で依頼するな!」となる。
・・・んじゃぁ、ないのかなぁ・・・。

ある一定の単価でなければ仕事ができない
という場合は、本当の意味でのプロではないのだと、私は思う・・・。
プロかプロでないかは、市場の評価によって決まる。
つまり、需要と共有、そして仕事の質、このバランスによって誰がプロなのかが決まる、・・・のだと思う。

追伸:プロはお金で評価されるプロともう一つのプロがあることを思い出した。
お金を得られなくても、だれも追随を許さぬオンリー・ワンの仕事をする人もプロにふさわしい。
そんな人は、無料で仕事をすることに、自分の仕事が人に必要とされていると感じれば、応じるだろう。

追伸2:先述「どうしてプロに無償で仕事依頼しちゃダメなのか?」で引き合いに出しているのは、「設計」と「八百屋」。八百屋に「これ、だだで頂戴」ということが「なし」のように設計を「タダで」はないと論じている。しかし、両者は別次元の話だ。八百屋には「原価」がある。だから、「タダで」というのは失礼な話だ。しかし設計には「原価」は僅少で、そもそも個人がゼロから生み出しているものであって(ハードは原価がある場合があるが、ソフトは原価はない)原価はない。あえて言えば、原価以外に、設計できるそのレベルになるまでの投資があるが、投資は消費者の知ったことではない。消費者に大切なのは「結果:青果物:商品」だけだ。
だから、先述「どうしてプロに無償で仕事依頼しちゃダメなのか?」「設計」と「八百屋」を引き合いにだし、八百屋に「これ、だだで頂戴」ということが「なし」のように設計を「タダで」はないと論じている。といっているのは、おかしな話だと思う。

いずれにしても、プロかプロでないかは自分が決めることではなく、消費者が決めるものだ。「どうしてプロに無償で仕事依頼しちゃダメなのか?」その問題設定自体がおかしな話だ。
ちなみに私は、収入を得ているのは「ポスト」によっているだけで、何かのプロとの自覚はない。

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