ヒマラヤ2007」カテゴリーアーカイブ

回想ヒマラヤ14 非日常その8

闘牛 この回想ヒマラヤを書くようになり、おそらくブログの読者は減った、そう思う。そりゃそうだ。文字数が多すぎる!!!読む気にもならん。
 以前ある人に言われた。仕事中調度信号で止まったときに読むにちょうど良い長さだからときどきチェックしてます、と。しかも、面白くもない。淡々と私の個人的感想をつづっているだけ・・・。そう思いながらも「思いを吐き出してきたこの『回想ヒマラヤ』、今日でほぼネタは尽きる。最後の回想です。お付き合いください。
 さて、私たちモンゴロイドは青い目の西洋人と違って、そうそうサングラスなど必要ない。海でも、山でも、スキー場でも、なければないですごすことができる目を持っている。そんなことをどこかで読んだことがある。今回のヒマラヤ、それでも私はサングラスを持っていった。なんとなく・・・。
 道中、サングラスをかけてちょっと気取ってみようかと思った。けれど、それは無理だった。なぜなら、乾燥して埃っぽいトレッキングルート、私はマスクを常時着用していたので、サングラスをかけると自分の鼻息でサングラスが曇り、ラーメンでめがねが曇る人のように前が見えなくなるからだ。特に、標高があがればあがるほど、私の鼻息の影響は顕著だった。だから、とくに運動量が激しくなる斜面を登るときは、サングラスなどはつけていられない。足元さえ見えなく危ないのだ。だから、何回もチャレンジしてはみたがサングラスは不便であった。そこでサングラスをかけて気取ることを諦めた。そんな中、チュクン(NHKでF先生が取材を受けていた場所。イムジャ湖への玄関口 標高4700m)のある朝、積雪があった。

アプローチ チュクンからイムジャ湖まで雪道(積雪は3センチくらいか)。上り坂。もちろん、サングラスがあったほうが気取ってていいのだろうが、そんな状況ではなかった。僕たちモンゴロイド。サングラスなくたって大丈夫。そう思って一日仕事をしていた。仕事からもどってチュクンでの夜、尿意をもよおし起きようと思った。しかし、目が痛い・・・。イタタタタ・・・。まるで、目を開けたまま、砂か塩で目を洗っているような痛さだ。もちろん、目を開けることができない。目を開けようとすると涙がでてくる・・・。中学・高校のときの自転車通学で、春一番の風が運んできた砂が目に入ったときの痛さが、涙を流そうが、なにをしようが持続する。そして、気づいた。仮に目があけられても、目が見えないのだ!私は別の意味で凍りついた。こりゃ、アカン。失明しちゃうのか・・・と・・・。
 畜生、完全失明だけは逃れたい!視力が落ちようが、死のリスクを覚悟してまでやってきたヒマラヤだ。少しの光だけでも残れば、ありがたいとしよう。そう思って30分くらい、目の痛さと涙と格闘した。目だけは少しだけ開くようになった。しかし、視力はほとんどなくなった・・・。私は、壁づたいに便所にいって用を足した。そして、涙を流しながらまぶたを閉じ、眠りについた。

グラス 翌朝、目の痛さは残っていたが、幸い視力は落ちたが、以後なんとか眼鏡にたよらず生活できそうである(最近、乱視で見難くなったが、最近まで両目2.0あった)。共同装備で用意した目薬をもらい、赤いウサギの目が白に戻るのをまった。3日ぐらいで目はもとに戻った。後で、サーダーにこの話をすると、彼はいった「私たちは、そのことをグレイシャー・アイ(氷河目)と呼んでいるよ。サングラスはしとらなあかんよ」。彼はそういった。まぁ確かに日本では「雪目」というのを聞いたことがある。きっとそのことだろう。私はもう、サングラスは気取るためのものと考えないことにした。生活の必需品。紫外線から目を守る道具。こころを入れ替えることにした。

 そして、今日、意味もなくサングラスをして金華山に登ってきた。もちろん、すれ違う人でサングラスをしてるのは私だけだった。でもいいのだ。今日からのサングラス登山は「サングラスを自分の鼻息で曇らせないで山に登るにはどうしたらいいのかを発見する」という新しい課題への発見を求めているのだから・・・。

 さて、KO大学では今年の4月下旬から5月下旬まで再びヒマラヤ行きを計画している。こんども声がかかるり、職場の理解も得られれば、今回の反省点を全て解決し万全の体制で臨むのだが・・・。どうなることだろう。

 これで、回想ヒマラヤシリーズは終わります。今後は短い文章を心がけます。どうもありがとうございました。

回想ヒマラヤ13 非日常その7

空港 10月31日カトマンズの空港に降り立った。初めてのネパールだ。なんといってもネパールの玄関。そんなに勝手が違うこともあるまい。
 これまで行った海外でビザを必要とする国はたぶんなかったと思う。しかし、ネパールの場合はビザが必要だ。あらかじめ日本の大使館に申請する必要があるのかと思っていたが、それは現地の空港で、少し並べば購入できるということだった。まぁ勝手が違うのはそれくらいだろう。そう思ってネパールに入った。
ビザを買うために並んでいたため(おまけに必要な顔写真を持っていなかったので、だいぶ焦ったが・・・)、少々入国審査が遅れたが、なんとか通過できた。しかし、遅れて出たために、もう荷物の受け取りのベルトコンベヤーにはほとんどの荷物が運ばれていたようだ。私は自分の大量の荷物を探した。すると7小口くらいの荷物のうち既に5つくらいの荷物は、かためておいてあった。ちょっとだけ「?」と思ったが、まぁ、誰か係りの人が荷物のタグを見て善意でそろえてくれていたのだろうと思った。私は残り2つの荷物が流れてくるのをまった。そして2つの荷物を発見した。しかし、7つの大きな荷物である。手で持っていくわけにはいかない。そこでカートを探した。
 すると、運よく私のほうに笑顔でカートを運んでくる見知らぬ人がいた。「誰だろう?」とはおもったが、何しろここは空港の中、税関の手前である。そんな空港の税関の前段階のところまで出入りできる人は、私の概念からすると「空港職員」に違いない。そう思った。やがてカートを持った2人組が私のもとにやってきて、7つの荷物をカートに載せ始めた。「ちょとまってくれ」。私の人生哲学は「他人の善意に頼ってはいけない。善意は気持ちだけ受け取り感謝し、労働は自ら行う」である。だから2人組みが荷物をそれぞれ1つづつカートに乗せたところで、私は自ら汗を流すべく、彼らの善意を断って自分でカートに荷物を積んだ。そして、仲間に合流すべくカートを押し始めた。
 すると二人組が僕の服を引っ張る。「?」と振り返る。彼らのうちの一人が、右手を自分の胸の位置に持ってきて、親指と人差し指を擦りながら、僕に何かを合図した。「?」。なんだろうと思い考えてみた。・・・なんだろう・・・。しかし、どう考えても状況からすると「チップをくれ」である。しかし、しかし、税関前ではないか?どうしてそんな一般人がそのエリアまで入り込むことができるのだろう。私はネパールという国は私が知る国とはまったく勝手が違うと思い、ポケットから両替したばかりのネパール紙幣をだした。まぁチップである。このくらいの金額でいいだろう。出したのは20ルピーくらい。すると彼は首を横に振る。「?」。「なるほど、これは少ないというアピールか!」私は50ルピーをだした。するとこれまた首を横にふる。いったいいくら払ったらいいのだ?私はポケットの紙幣を取り出し眺めていたら、彼は私の紙幣を指差し「二人分だ、これをくれ」という。900ルピーである。900ルピー札を巻き上げられた。私は、かなりショックだった。900ルピーといったら日本円で1800円。ネパールという国情からすると大金ではないか!この件でネパール人の善意を疑うようになってしまった・・・。(もっとも私は900ルピー札とは変な割り切れない数字の札だと不思議に思っていた・・・。いずれにしても、このショックをKOのF先生に話した。すると彼はいった。あんたねぇ、900なんて札があるかいな。よくみてみぃ。100やで。確かに良く見れば先ほどの札は100ルピー。ネパール文字の100が900にそっくりだったのだ)

 こんなこともあった。カトマンズの空港。ネパールの玄関口。国際空港。その空港からチャーターヘリでシャンボチェ空港(ナムチェバザールの近く)に飛ぶために、カトマンズの空港、国内線乗り場に行った。私は、便意をもよおした。なにしろココはネパールである。ウンコ紙を持って・・・。私は感極まった状態で用をたし、その後始末にかかった。「ん?水洗レバーがないぞ?」まぁいいやきっと水ダメがあり、そこから手桶で水を汲み取り流すのだろう。「あれ、水ダメがない」。でも手桶がある。状況判断からすると便所の個室の壁についた蛇口をひねって水を出し、手桶で受けて、「ウンコ」を流すのだろう。私は知ったかぶりで蛇口をいじり(通常日本で見る蛇口と形が違った)水をだした。そして、ブツを流した。さて、トイレから出ようと思ったが、水が止まらない。おかげで便所の床は水浸しになっている。蛇口からどうやって水を出したのか覚えていないから、水をどうやって止めていいのかわからない。試行錯誤を一分ぐらい続けた。しかし、水はとまらない。このまま便所から出て知らんふりすることもありえるが、それにはあまりに水の勢いが強すぎる。・・・。困った・・・。ちょうどそのとき、便所の掃除のおじさんがやってきた。私は便所掃除のおじさんに助けを求めた。彼は簡単に水を止めてくれた。「サンキュー」といって立ち去ろうとすると、便上掃除おやじは、またあの見覚えのあるポーズをした。手を胸のまえに持ってきて、親指と人差し指を擦った。なんと、この親父チップをようきゅうするのかぁ~!だいぶショックだった。彼に20ルピーを渡したが、そのオヤジ、うけとった瞬間、舌打ちをした。

 さらにこんなこともあった。シャンボチェ空港にいくための国内線搭乗前の荷物検査、まえの西洋人は非常に厳しいチェックを受けていた。荷物は全てあけられ、ひとつづつ「これは何か?」とたずねられていた。西洋人はそこで「アーミーナイフを没収された。機内持ち込みはだめだと」しかし西洋人はねばった「なんとか機内持ち込みではなく、手荷物預かりに回すから許してくれ・・・」などといいながら交渉していたが、検査官は首を立てに振らず、西洋人はなくなくアーミーナイフを手放した。私はそれを見ていて、このはなかなか厳しいぞと思った。となると、私はビデオ・パソコン・GPSなど見るからに怪しい荷物を持っている。いちいち聞かれて面倒くさい。覚悟して検査官に挑んだ。もっとも怪しくみえる荷物を彼に示した。するとその彼は、まずそのケースの中にあったボールペンをチェックした。えーー、ボールペンからチェックされるのかぁ~と思い、気の遠くなりそうな検査でうんざりした。しかし、彼の話を聞いてみると、信じられないことだが彼はこういった。「このボールペンは俺のものか?」。私はわけがわからなった。でも、まぁいい、あんたにあげるよといった。すると彼はうれしそうに私のかばんの中のボールペンをポケットに入れ、あとの荷物の検査もせずに私を荷物検査から解放してくれた。

 とにかく、カトマンズで人間不信に陥り、かなり傷心した。

ヒラリースクール さて、シャンボチェ空港からナムチェバザールに入り。ナムチェバザールで高度順化のため3日間滞在した。その間に、ナムチェ付近の標高が少し高いところにいって体を慣らす。そんなあるひ、クムジュンというシェルパの町にいった。ここには、エベレスト初登頂者の「エドモンド・サー・ヒラリー」が立てた「ヒラリースクール」がある。シェルパへの感謝の気持ちからシェルパの教育をになおうという社会事業だ。ヒラリーは山登りするものにとって「神」に近いヒーローだ。そんな彼のつくった学校の横を通った。学校では子供たちが屈託ない笑顔で走り回って遊んでいた。シェルパに学校にはいってもいいかと聞けば、どうそという。そこで神の学校に入った。笑顔の子供たちが寄ってきて、デジタルカメラをものめずらしそうに眺め、デジカメで撮った写真を彼らに見せると彼らは完成をあげる。もちろん、私も彼らの姿をとりたかった。でも・・・、カトマンズのことがある。あの笑顔の子供たちの写真を撮ったあと、あの笑顔の子供たちからチップを要求されたら・・・。チップを払うことはなんでもない。お金の問題ではない。もしもあの素敵な子供たちからそんなことをされたら、僕は立ち直れないほど人間不信になる。それが怖くて彼らにカメラを向けられなかった。

結局、子供たちはチップを要求することなく、デジカメにうつる自分たちの顔をみて、純粋に喜んでいたようだった・・・。よかったぁ・・・。

回想ヒマラヤ12 非日常その6

377796f6.jpg 話には聞いていたが・・・。そんな光景を目の当たりにびっくりしたことの1つ。見た目には車が走り、僕たちが来ているズボンやシャツを着ていて、これが最貧国か?と思わないカトマンズ。もしも裸で人が往来を闊歩し、乗り物が馬か牛か、であれば「なるほどこれが発展途上国」と思っていたのだが。しかしカトマンズは想像できる範囲内のテレビで観る国と変わりないと最初は思った。
 ところが、写真のような光景を目の当たりにすると、テレビで観る、本で読む世界を通りこして、かなりショックだった。行き倒れの人を何人か見かけた。もしかして、これは死んでいるのかと思ったが、とりあえず写真の人はその後、「ムクッ」と起き上がりその場を立ち去った。想像するに、田舎から職を求めて首都にやってきたが仕事がなく、家もなく、食事もあまり取れないので、路上で・・・。なのだろう。
 またこんなこともあった。われわれがバスで移動中、交差点で止まる。すると中央分離帯に上った10代にも満たない少年が、われわれのバスの中に向かって、手を口に持っていって食べるしぐさをしたあと、両手を合わせ頭を下げて祈ることを繰り返していた。少年の目には涙が浮かんでいた。
 
 ・・・。

 ・・・。

 ・・・。

 こんな光景をいくつも目にしていると、やっぱり考えてしまう。「地球温暖化」だとか「今年のイルミネーション」「騒がしい芸人のグルメ番組」。・・・。・・・。ほんとに大事なことってなんだろう。

 学生の頃から「南北問題(貧しい国ととめる国との格差問題)」についていつもことあるごとに考えている私。今回の光景を前に、まだ最適解を見つけるには程遠いが、心に残る貴重な事象を得た。

NHKの番組

 僕の映像が少しだけ出いました。イムジャ湖の話がでてきたときに、大沢たかおが「山から人が下りてきました」といったナレーションがでたときに豆粒のような4つの影があったけれど、その影の1つが僕でした・・・。

回想ヒマラヤ11 非日常5

 実はこの記事二回目の投稿になる。おとついの夜、寝る前に入力し投稿したと思ったのに、投稿ボタンの押し間違いで、記事が、インターネット回線からこれげ落ちた。あのときかいた僕の記事は、「宇宙船からこぼれ落ち、冷たい宇宙に永久に浮遊するひとかけらのゴミ」みたいになった。
 
 そのため僕は落ち込み、昨日は筆を取れなかった・・・。しかし、回想ヒマラヤを終えなければ、ヒマラヤ「あり地獄」から抜け出し、つぎのステップを踏み出せないから、今日は気を取り直して、おとついの記憶を思い出して進んで行こうとおもう。

 さて、今回びっくりしたことの2つめ。「高所で何が起こったのか?第二段」。結論、高所では顔が変わるということ。たとえば日本で寝起きのとき、疲れが取れていない日などは「あ~顔がはれぼったい」なんていうときがある。飲みすぎたときの朝・・・。それと同じような変わり方で、高所では顔がはれて、われながら「この人だれ?」と本気で思うほど顔が変わった。じゃぁどれくらい顔が変わるのかについて写真を撮っているので、その掲載も考えたが、どこかの学習塾のCMのように、顔に落書きされたら恥ずかしいので(たとえば、髪の毛を生やしてみるだとか・・・)写真の掲載は我慢した(一生懸命モザイクとか入れていたんだけど・・・)。知りたい方はメールください。

 以前、高山病対策に水を沢山飲むということをかいたが、どうやら現代医学の力をもってしても高山病がどのようなメカニズムでおきるのかよく分っていないらしい。薬で「ダイアモックス」というのもあるが、その薬、なにも高山病のための(予防)薬ではなく、単なる「利尿剤」を利用しているだけ。とにかく高山病のメカニズムは分らないらしい。でも、なんとなく、体液の循環に異常がおきるために「高山病」が起きるらしい、ということだけはなんとなく分っていて「やれ水を飲んで、小便を出せ」となる。

 だから高所にいくと体液の循環の異常で顔がはれぼったくなる(と思い込んでいる)。一時は、自分でも泣きたくなった。もしかして、日本に帰ってもこのままかなぁ~。これじゃぁときに「坊さん」だとか「●●●」かと間違えられるが、その迫力がなくなり、絶対別人。

 でも、不思議なことがあった。顔に異変があったのは、51歳のKOのF先生(僕よりもひどいこと顔が変わっていた)と41歳の僕の二人。一緒にいったKOのフレッシュボーイ’Sたちにはその変化はなかった。この高山病症状、歳をとればとるほど激しくなるのかと疑問は残る。

回想ヒマラヤ10 非日常4

 この半年で8キロ近くのダイエットをした。そのために、日々有酸素運動に気をつけ、食事も腹4分くらいで抑えて、禁欲・禁欲の生活をつづけ、減量してきた。一般的にいって、体脂肪が燃えるのは、心拍数が120以上のときらしい。だから体脂肪を燃やすため負荷の低い自転車(自転車通勤)をやめて、自転車以上に負荷がかかるランニングを選択した。それで、数日に一回、ランニングをすることを心がけた。
 体脂肪が燃えるための条件は脈拍数以外にもう一つある。運動の継続時間だ。心拍数120以上を20分以上キープしたとき、体脂肪が燃えるという。そのため、さきほどのランニングも一キロを5分で走る僕は、4キロ以上は走らないことには体脂肪は燃えない。そこで、毎回苦しみながら10キロ~12キロを走り続けた。こうして苦労して8キロの減量を実現した。

 さて、話はヒマラヤ。僕は健康診断をするたびに、「じょ脈」、つまり心拍数が低いと指摘される。大体、一分間に50鼓動を下回る程度だ。さて今回のトレッキング、空気は平地の半分以下、だから、酸素をいままで以上にキープするためは、①呼吸の数を増やす②脈拍を増やし血液の流れを早める。などの工夫をしないと死んでしまう。

 幸いなことに、体はよくできていた。苦しくなったら自然と深呼吸する回数が増える。またこれが驚きなのだが、高所では自動的に脈拍があがった。4000mを超えたところでは、ときどき心拍数をはかっていた。すると、脈拍は80~110くらいだった。空気が薄くなると自然と心拍数があがるのだ。
 ところで、脈拍数があがるということは心臓という筋肉の塊の運動量が増えるということ。しかも、高所にずーっといるから心臓という筋肉は常に運動している。心臓が運動をするためにはエネルギーが要る。エネルギーが要るために体脂肪が燃える。そのため沢山食べてないと体力を維持できない。だから、ヒマラヤでは食事の量を腹8部くらいにするように意識していた。
 その甲斐あって、ヒマラヤから帰っても他のメンバーは3週間で8キロやせたとか、3・4キロやせただとか行っていたけれど、僕の場合は体重は変わらなかった。

 
 ところで、高所ではどんなことが起こるのかと興味深深の方もいるかと思う。そこで、僕がびっくりした高所で起こったこと2つを紹介しよう。今日はまずその一つ目。

 一つは、寝袋で寝ることが命がけだということだ。たとえば、家のベッドで布団いもぐりこむとき、一般的に人は布団を持ち上げ、掛け布団と敷布団の間にスライインする。これはあたりまえ。別になんんともない。ところが、寝袋だとそうはいかない。
 コタツで不覚にも寝てしまった経験はだれにでもあるだろう。あとで、試してみていただきたいが、コタツで寝ようと思ったら、布団を上げるようにはできない。天板が固定されているから、決められた床と天板の間の距離にスライドインしなければならない。自分に都合がいいように布団を上げることができないのだ。
 これが曲者(くせもの)である。人はあまり気づいていないと思うが、コタツで寝ると天板と床との間にスライドインするには、意外と腹筋を使う。でも、こんなことは平地ではなんでもない。
 しかし、これが高所の寝袋となると大変だ。寝袋はベッドの布団と違い、スライドインする高さを自分で調節できない。つまり、コタツと同じだ。コタツでは腹筋を使う。それと同じように寝袋で寝るには腹筋を沢山つかうのだ。これが問題。腹筋を使うために、筋肉をつかうい、そのため安静時以上の酸素が必要で、安静時よりも多くの酸素が要求される。となると、どうなるかといえば、山を登っているような負荷が体にかかる。つまり、高山病対策のため頻繁によるトイレに行く。(寝袋からでて、寝袋にもぐりこむ)。そのため、トイレからもどり寝袋に入るときはいつでも、100m走をしたようにゼイゼイするのだ。さらに、さらに寝袋に寝ながら寝返りを打つと、実はそれだけでゼイゼイのだ。

 おーーーっと。ということは低酸素の高所にいる限り、運動をしなくても体脂肪は燃える。

 さて、やせたくなったら、またエベレスト周辺にいかなくちゃ。おっと最近、また体重が気になり始めた。再度ヒマラヤに行かなくちゃ!!!

回想ヒマラヤ9 キッチンボーイの毎日

ガーリック ヒマラヤでの道中、僕らの食事はすべて専用に雇用したキッチンボーイがつくってくれる。どうも彼らはポーターとシェルパの間の役回りをする。さて、ネパール料理とはいったいなんだろう。
 大学の同級生がネパールへ卒論のために3ヶ月ある村に滞在した。彼は言っていた。「あの人たち、毎日カレー。しかも想像を絶する辛さ。そして、毎日同じものばかり食べている」。まぁ僕らのヒマラヤ道中も毎日カレーだろうとおもった。そしてそんなカレーの作り方を覚えて「カレー仙人」(私のブログに登場している)に自慢しようと思ったが、約二週間のトレッキング中カレーらしいものがでてきた覚えはあまりない。
 カトマンズでは、いろんなものを食べた。うまかった。「モモ」という餃子に近い食べ物、「スプリングロール」の春巻き、もちろんカレー・・・。さて、料理専門のキッチンボーイは何を食べさせてくれるのだろう。期待して望んだ彼らの始めての料理。でたー待望の「ガーリック・スープ」(写真)。カトマンズでネパール人に聞いた「高山病予防にいい」といわれているスープ。初めて口にしたときの感想。「うまい!」。
 たしかに、うまい。でも毎日でてくるそのスープ。味がいつも違う。アバウトなのか、それとも微妙に変えているのか・・・?そんなスープの作り方を聞いてみた。材料はいたって簡単。すりつぶした「にんにく」に「塩」、少量の「ミルク(たぶん脱脂粉乳)」それだけだ。けれど、うまい。・・・けれど・・・。
 こんなことがあった。日本から持っていった、ラーメン、そば、うどん。トレッキングも半ばになり、そろそろネパール料理も飽きてきたころ(私は飽きていないが)、彼らにその麺類を渡した。すると器用に、ラーメンも、うどんも、そばもつくってきた。ところが、麺は日本の麺そのものだが、彼らは、スープに「すりつぶしたにんにく」をいれ、全て「ガーリックスープ」風に仕上げる。こうなると・・・。うーーーん。これって、ラーメンなの?ソバなの?うどんなの?となる。
 ガーリックスープ以外に、印象に残った食べ物は、チャパティ(小麦を焼いたパンみたいなもの(パンほどうまくはない))、ダルバート(カレー風煮込み野菜と豆の汁などがセットになったもの)。などなど。
 いつも残るほど作ってくれた。かといって、シェルパはわれわれと一緒に食事をするが(それでもシェルパも給仕を手伝っていた)、ポーターやキッチンボーイらと僕らは一緒に食事するのではない。ポーター、キッチンボーイは外で粗食とのことだった。

顔あらい キッチンボーイの仕事は、① モーニングティー。あさ「ティー」「ティー」とロッジの個室の前で声をかけ、僕らが扉を開けるとベッド(といっても板張りのベッドに敷布団があり、その上で寝袋で寝ている)まで、紅茶を運んできてくれる。②紅茶が終わると、顔を洗うため洗面器にお湯をいれて部屋の前の廊下においてくれる。こんなことがあった。トレッキング初めての朝、彼らが洗面器を置いていった。同室のF先生が廊下で洗面器のお湯をつかい顔を洗っていた。そして寝袋から出た私も廊下にでた。ちょっと躊躇したが、郷にいらずんば郷にしたがえ、洗面器が1つしかなかったので、F先生が顔を洗った洗面器で顔を洗った。よかった、年長者よりも先に顔を洗わなくて・・・。僕が先に顔をあらったらF先生、しかも僕にとってこの調査のスポーンサーに、僕がつかったお湯で顔を洗わす羽目にならなくて。しかし、これはちょっと屈辱だった。
洗面 たまらず、「先生、先生のつかったお湯で顔を洗わせていただきました」と報告すると、彼は「キョトン。・・・。ワハハハ、ヒィヒィヒィ・・・。ドアをはさんで反対側にもう一個洗面器あるだろう」。確かにあった。誰も使わなかったきれいなお湯が・・・。
 さて、話はキッチンボーイの仕事。③朝食。僕らが部屋で寝袋を片付けたりリュックの荷物を整理していたりすると、キッチンボーイが廊下を「スープ・レディ」といいながらあるく。スープができたよ~と教えてくれる。朝飯の始まりだ。④ 移動中も彼らは私たちの先回りをし、昼飯前に ⑤ティータイム。 ⑥昼飯、⑤ティータイム、⑥晩飯、これらが彼らの仕事だ。

BC食事 イムジャ湖(調査対象地)のベースキャンプでは、なぜか朝はいつも外で朝食。気温は氷点下20度だ。割と寒い・・・。けれど、キッチンボーイはわれわれよりも先に早くおき、いつもどおり紅茶をいれ、洗面器にお湯を入れ、朝食を出してくれる。ちなみに、ベースキャンプで出される料理は全て、氷河湖の泥水(割とうまかった)を使ってのものだ。

クムジュン そんな、トレッキングも2週間くらいで終わり、ナムチェバザールのちかくにある「クムジュン」という村でキッチンボーイたちとはお別れだ。写真は最後のティータイム。こんな大きなヤカンで紅茶やジュース(レモンやオレンジの粉末をお湯で溶いたもの)を「もういい」というまで注ぎ続けてくれる。温かい、オレンジジュースやレモンジュースは割りとうまかった。
 ちなみにこのクムジュン、ただの町かとおもったら違っていた。シェルパの町。しかも、日本山岳会が最初のエベレスト遠征に来た前年、植村直己がこのクムジュンで気象観測をしながら、毎日、エベレストの見える丘まで登山靴をはいてジョギングしていたところ。「青春を山に駆けて」や「植村直己物語」で、僕の頭のなかに強烈に焼きついているシーンの場所。確かに、クムジュンから丘に登るとエベレストが見えた!しかし、こんなところをジョギングするなんて、考えられない。近所の子供はサッカーをしていたり、鬼ごっこして駆けているから体が慣れればジョギングできるのだろうけど、よっぽど高地で住まないことにはジョギングなんてとても、とても・・・。

回想ヒマラヤ8 たくましきシェルパ民族

キッチン 空気が薄いということを体験したことがなかった私。まぁ、ガッツと根性で解決できないことはないだろうと思っていた。しかし、実際行ってみるとちょっと坂道を登っただけでも、ゼイゼイしなければ死にそうだった。しかも、このゼイゼイ、単に下を向いてゼイゼイしているだけではダメだ。胸いっぱいに空気を吸い込み、胸がはちきれるまで空気をいれてゼイゼイしなければ、息継ぎをしないで50mプールを泳ぎきる45mからの苦しさ・・・。
 僕ら平地の民(平民)は、シェルパ民族に脱帽せざるをえない。上の写真は僕らのキッチンスタッフの荷物である。彼らは水の入ったポリタンク、食材、食器、などを背負い、ゼイゼイいって亀の歩みの僕らを、たとえ朝後発しようが途中で抜かしていく。息も乱さず・・・。

石運び たとえば、この写真。標高3800m付近、シャンボチェ空港からナムチェバザールへ降りる山道の何気ない風景。もちろん、車など通る道はない。したがって、物流は全て人力。建築材料などになる「木材」は近くにない。そこで、この地域は石材が建築材料の主流だが、その石材もこうした人海戦術で一つ一つ人間の手で運ぶ。

板運び 資材の産地と使う場所がちかくでない、木材など、これだって人力で運ぶ。僕が平地でも2枚くらいしか持ち上げられないような分厚い大きな板。そんな板も5つまとめて、持ち上げた上、数日かけて4000mオーバーの場所を運搬していた。長さが7m、直径25cmくらいの塩ビパイプだって、インドの大蛇使い以上の迫力で黙々と運んでいた。車がないってことは、僕たち日本人には信じられないが、ココでは普通。こんなのトラックなしでどうやって運ぶのかとおもうようなものでも、彼らは人力で峠を超え、谷を越えていた。トラックで運べないもの?そんなのは使わない、必要ない世界だ。つまり、重機もないから工事だって、人力でできる範囲の建築スケール。

ハイポーター 僕らトレッカーは自分の着替えと水筒・カメラ等を入れたリュックくらいしかもてない。それ以上は耐えられないくらい重く感じる。じゃぁ、着替えや仕事の機材はどうするか?といえば、ポーターと呼ばれる運びを仕事とする人たちにお願いすることとなる。僕らの荷物、日本の空港から出発すとき、つまり僕らが平地で重たいなぁ~とおもう荷物でも、彼らは2つ、3つと信じられない方法で運んでいく。リュックの肩紐を使うことなく、複数のリュックを紐で強引に結び、または竹かごに入れ、全ての重みをデコでささえる。僕らがこの荷物を平地で担いだら・・・。きっと立っていることさえできないだろう。

 そんなたくましい彼らに驚嘆してばかりいられない。彼らを見てすぐにおもったことは、あれだけ体を酷使すれば寿命がさぞ短かろうとうこと。ああすることしか、仕事がない(自給自足では生活はできなそう)。逆に、あれをすれば家族を支えられる。父ちゃんたちは毎日朝から日が暮れるまで、重い荷物を背負って山道を往復する。

 ポーターの日給をネパール人に聞いてみた。一日だいたい500ルピーだとのこと。しかし、それは食事や宿泊は含まれてない。宿泊だって、彼らはロッジではなく、そとで寝る。食事だってお金を節約するため粗末なものしか食べないそうだ。きっと家族に一ルピーでも多く持って帰るためそうするのだろう。英語が話せれば、シェルパというガイドの仕事もあるのだろうが、教育を受ける機会がなかった彼らは、こうして毎日おもい荷物を背負って死んでいく。

 でも彼らの表情には悲壮感がない。

 こんなつらい仕事(もしかしたら、やっとありつける仕事)も、実は厳冬期と雨季にはトレッカーが来ないため、一年のうち半分以上はなにもすることがない。しかもトレッキングのシーズンでさえ、仕事がありつけるかどうか分らない。僕たち文明人は日給×365日で収入を計算するが、かれらの場合は、日給×180日×仕事にありつける率である。500ルピーが高いか安いかわからないが、僕らが高い安いというべきではない気がした・・・。

 ここに来る前は、ポーターだって最小限、キッチンスタッフだって自分たちで自炊して、宿泊だってテントで・・・、僕が学生の頃やってきたような貧乏旅行の感覚をもってヒマラヤに入ったが、ヒマラヤの国情や同じ人間としての生活を考えると、僕らが彼らにできることは、多くの人に雇用の機会を提供すること、そんな気がしてきた。

回想ヒマラヤ7 あらたな冒険


今日は冒険だ。はじめての動画投稿。さいきん、このライブドアのブログで動画を受け付けるようになった。ちょうど、いまビデオと動画編集ソフトを大金を出してかったので、このネパールをネタに動画編集を覚えることにした。またまだかろうじて動画になっているだけだが、そのうち立派な(?)動画をアップするつもりだ。

さて、今回のヒマラヤ回想録。なんかいもカトマンズの空気は最悪だったとうことをいった交通渋滞。交通ルール。排気ガス。道路の路面。どれをとっても困った状態だ。それを紹介するには動画がいいと考えた。上の動画は8月だったか9月のブログで紹介したビデオ(ハイビジョン:先日われわれのプロジェクトがNHKの国際ニュースで放映されたが、そのニュースの中でつかわれた割ときれいに取れるビデオ)で撮影した。動画の編集はAdobe Premiere Proというのでやっている。今日はじめて使ってみた。もちろん、今日から使える代物ではないが、試行錯誤でやっとこんな動画を作ってみた。最初の場面はネパールの繁華街。人力車や車やバイクがこの細い路地をクラクションならしながら通る。次のシーンはホテルの前の繁華街につながる大通り、バイクも人も自転車も車もスレスレで走ってる。その次はこの渋滞を右折するわれわれの車!信じられなかった・・・。そして最後は夜のカトマンズ。渋滞しているので車道を平気でバイクが走ります。おー、危ない・・・。


 次はデジタルカメラでとったカトマンズの交通事情。歩道を走る車!(われわれの車だが・・・。ネパールでは歩道を車が走るのは日常茶飯事のようだ)。渋滞のさなかのユーターン。小さなこどものノーへルでバイク。まったく日本では信じられない。

空気の悪さが伝えられないのは残念だが、カトマンズに一週間もいたら、クラクション音と排気ガスで体がおかしくなりそうだ。昔タイにいったとき、タイも渋滞が酷かったが、タイの渋滞は「都会の喧騒」という表現がぴったりで、なんだか楽しくなるような渋滞だったが、カトマンズの渋滞は・・・。大きな違いは車の巻き上げる砂埃にあるのだとおもうが、思い返せば、タイ・バンコクでは舗装されていて、カトマンズは土むき出しの道路。日本にいては無味乾燥のコンクリートジャングルのアスファルトに嫌悪する私だが、変わって日本であれだけ渇望したノン・アスファルトの道路で日々生活してみるとアスファルトの道路がなんと健康的かと感じる。

なんとも身勝手な自分だとつくづく思う。ただ、・・・、交通量しだいだと思うのだが・・・。

回想ヒマラヤ6 非日常その3

【紳士?の身だしなみ?】
pantsu これまでの41年の人生の中で風呂または水浴びをしないですごした日々は最大でも4、5日か?きっとネパールではそれを越すだろう。覚悟していた。結局、風呂または水浴びをしなかった期間は2週間に及んだ。しかもそのうち着替えをしたのは2回。
 一回目は一週間目で初めてパンツとシャツと靴下を変えた。バンコクではシャツとパンツの節約のため(?)同室のKO大学のF先生に笑われたりしようが裸で寝たり・・・涙ぐましい努力をしたが、一日洗濯する時間があったのでそのとき初めて日本を出て下着を替えた(ちなみに寝るときも靴下を履いていた・・・)。場所は4300mのディンボチェである。さて、洗濯。もちろんコインランドリーなどない。洗面所もない。はたまた水道もない。氷河の融水の川も遠い。そこでシェルパのリーダー(サーダー)に聞いた。「洗濯をしたいのだが・・・?」かれは言った。あそこにある洗面器をもって、キッチンスタッフにお湯をもらって洗濯しなよ。そこで私はちかくにあった、洗面器をもってキッチンスタッフのところにいってお湯をもらい、ネパールではじめての着替えをしてすがすがしい気持ちで洗濯をした。気温は氷点下。洗濯物は乾くだろうか?そんな心配をよそに、空気がめちゃくちゃ乾いているから(だから喉と鼻をやられたのだが・・・)数時間で氷点下の寒空の下、直射日光を浴びたパンツは乾いた。
 ただ問題がないでもなかった。というのは、私が洗濯をした昼間。それから数時間して食事の準備が始まった。昼のティータイムでつかった食器をキッチンスタッフが洗っていたのは、私が洗濯をした洗面器だった。僕たちは、僕の下着をあらった洗面器で洗った食器で紅茶を飲み、飯を食った。もう、このあたりでは高山病で日本でいけば酔ったような気分「あーーー、どうにでもなれぇ~」という感じになっていた。もう矢でも鉄砲でも持って来い!

sentaku

 さて、結局二週間風呂に入らなかった。途中の着替えは上のディンボチェと、その2日午後のチュクン。チュクンで着替えた理由はちょっと風邪気味になり一日オフをもらった。たぶん、熱があったのだろう。夜寝ていて汗をかいた。そのとき2度目の着替えをして、そして初めてウエットティッシュで体を拭いた(タオルで拭くにも水がない。あっても外で凍っていた)。結局、二週間で2回着替え、一度ウエットティッシュで体を拭いただけ。
 今回のネパール合計3週間。もっていった着替え、パンツ3枚、登山シャツ3枚、靴下4枚。洗濯をしたためパンツもシャツも2枚使っただけ。靴下は4枚全部使った。そんな使い古した下着類を岐路のナムチェバザールで選択をした。ここはデラックスルームをかり、シャワー(ただし、宿のほかの人がお湯を使えばお湯は出なくなり水に変わる)あり、洗面所あり。洗面所のシンクで使い古したパンツとシャツを洗った。すると写真のように砂と油で洗剤+砂+人油で水は大いに濁っていた・・・。しかし、シャツもなにもかも、空気が乾いて汗をかかないし、冷たい空気でにおわないし・・・。数週間風呂に入らなくたってご機嫌な毎日だった。

【仕事風景】
sokuryo

【偉大なシェルパ】
rakupanul 片言の日本語を話すシェルパ。彼の名前はラックパヌル。45歳。「チャムイネェ~」「ションベ」「キュウケイ」。ユーモラスな喋りとは裏腹に、彼はいままで「エベレスト」に4回チャレンジし、2回登頂。「マナスル」にも登頂。「マカルー」にもチャレンジしている、スーパークライミングシェルパ。とても素敵な人だった。