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金華山 夜明け前

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昨日は挫けた金華山。昨晩は早く床につき、おかげで5時に目が覚めた。そと、真っ暗。

布団の中で金華山しない理由を探す。探せば探すほど・・・目が冴える。

30分の格闘の後、飛び起きた。
よーし、行くぞ!

気をつけること。汗をかかない山登り。
まぁなぁ大丈夫だな。汗をそれほどかかずに登り切る。
夜明け前に山頂。

帰り道はさすがにいつもの急傾斜地は避けて、ゆるい山道で帰る。
膝は痛くないか?うーん、大丈夫なよう気がするが微妙?

峠越え2

 さて、年賀状も書き終わった。今日は、それに集中するために仕事を休みにした。

 我が家はなるべく脱ストーブに努めている。お客さんがくるときにはストーブはつけるが、それ以外はコタツ。床暖房などもってのほかだ。人間寒くても生きていけるし、体も丈夫になる。・・・と信じている。
 飯を食うと体が温かくなるが、日ごろ二食の私だが、今朝は年賀状書きに集中するために飯も食わなかった。その代わり、もらいもののケーキの残りを食った。この高カロリー食品を食べてしまったために昼も食べないことにした。しかし、3時ごろになると腹が減ってきた。腹が減ると寒さが身にしみてくる。この寒さを回避するための選択肢。その1、ストーブをつける。その2、飯を食う その3 風呂に入る その4 運動する。私はその4を選択した。金華山登山だ。ちょうど金華山をはさんで反対側にファックスをせねばならない(乗鞍のツアーの申し込み書類)。そこで、リュックに必要事項を書き込んだ書類を入れて、1980円の靴で金華山を往復。

 金華山二往復と、届け物をするための3キロ(?)くらいのランニング。久しぶりの運動だ。

 しかし、1980円の靴。ディスカウントショップで買った靴は、ジョギングにはよかったが、底が柔らかくて薄いために、恐竜の背びれのようなむき出しのチャート岩で足の裏が痛いこと、痛いこと。これは靴のせいだとおもうのだが、もしかしたら、山登りをしていなかったために、足の皮が薄くなったのかもしれない・・・。きっとそうだ。前はこんなに痛くなかったから。
 これから冬休み期間だ。なるべく金華山登山をして足の裏を鍛えようと思う。

 (鍛えてどうなるというものではないことはわかってはいるが・・・)

恐怖体験

 このところ職場の隣町にある温水プールで「心肺機能をたかめるために(?)」1・5キロくらい泳いでいる。これで5回めくらいか。当初は4年ぶりくらいのプールだったので、最初の一回目は、1キロ連続して泳ぎ、一旦足をついて500m泳いだ。いまでは1.5キロくらい平気で泳げるように調整できてはいる。ところが、この平気が問題だ。いまは体脂肪を燃やすことではなく、心肺機能の向上を主眼においているので、「平気」に泳げるのではダメだ!!!ダメだ、ダメだ。もっと苦しくなければ。そう思って昨日は500、500、500を割りと早めに泳ぎ、ヒーヒー、はーはーいって泳いだ。
 しかも泳ぎだけではダメだ!初公開であるが4月19日から5月14日までヒマラヤに声がかかっている(けれど、事務局の人事異動が4月にあるので、それを見極めてから職場で話をしたほうがいいといわれ、まだオフィシャルにヒマラヤ出張は認められてはいない)。もう一月しかない。そこで昨日片足2キロのオモリを買って足につけることにした。

 泳ぎ、オモリ、それだけではダメだ!昨日激しく泳いだが、夜金華山に足首にオモリをつけて登ってきた。曇りだったため、町の明かりが雲で反射し割と明るい金華山登山だったが、帰り道、もう道路に出るというところで、下側20mくらいのところで、枯葉を踏みしめて走り抜ける小動物の影をみた。猫より大きい。以前の猪と思える動きよりも小さめの動き。だいたいシバ犬くらいのサイズ。猪の子供か?野犬か?
 
 背筋が凍った・・・。怖かった・・・。

金華山物語 土器編その7

すり鉢 今日は暖かく天気もよかったので、体もよく動きそうだと思った。そこでまた新たなトレーニングコースの開拓に乗り出した。これまで岐阜公園⇒山頂⇒岩戸公園(岐阜公園の山を挟んだ反対側)⇒徹明町⇒岐阜公園⇒帰宅というコースで、登山40分、ランニング40分がいまのところ最長コース。今日はそれのランニングをもう少し延ばすための新コースにチャレンジ。登山後のコースを岩戸公園⇒徹明町⇒忠節通⇒忠節橋⇒直ちゃんロード⇒帰宅に変更して距離と時間を計ってみた。そのところ、ランニングコースは53分で13分長いコースになった。
 本当は今日、サイパンで思ったことをまとめてみようと思ったけれど、今日のトレーニングでそれを越えることがあったので、サイパンで思ったことは後日として今日の話を進めることにした。
 以前、すり鉢を拾って、そのすり鉢の隣のすり鉢片を拾った方への手紙というのを岐阜市教育委員会に出してきたといったが、なんと、その手紙の受取人がもしかしたら「私」になったのでは?と思えるすり鉢片を今日金華山で拾ってしまった。
瓦 しかも拾ったのはそれだけではない。今日は大収穫。いままで丸瓦と平瓦を拾ったのだが、新しいタイプの瓦を拾った。おそらく屋根の末端。なんというのか分からないがよく屋根の末端で紋がついている部分と思われるような屈曲した破片。それだけではない。ある場所から連続してザクザクと瓦片が見つかった。
 妄想力には自信がある私。今もいろいろ妄想して楽しんでいる。同じ場所から連続して瓦が発見されたといことは、おそらく一枚の瓦がその場所で割れたのではないだろか?もしも、瓦が屋根から落ちて、どこかで割れて転がってきたのなら、その破片は小さいはず。ところがある場所から連続して瓦が出てきたということは、屋根から瓦が落ちたとき(しかも焼けたことを示す白いかわら)ファーストタッチダウンしたのは、その場所。いろいろ考えると山頂に向かって右側(瓦発見場所の南側)に瓦葺きの建物があり、それが燃えて北側に崩れてかわらが落ちたのではないだろうか。しかも、平坦な南側の土地から数十メートル離れているから、もしも、発見現場が瓦のファーストタッチダウンの場所ならば、その建物の高さは10メートル以上の高さではないだろうか・・・。もしかして天守閣があったのか!?通説ではそこには台所だというが、一方、台所に瓦なんかを使わないらしいから、やはりそこには天守閣があったのか?胸は高鳴る歴史ロマン。早く教育委員会に知らせなきゃ!

曲輪

曲輪 今日、久しぶりに打ち合わせもアポもない一日だった。仕事の資料を家に置き忘れたので午後から代休をもらい早々と帰った。仕事をする前に金華山に登ってきた。
金華山馬の背登山道で、実はひそかに楽しんでいる場所がある。土器や瓦の発見場所ではない。途中に石垣のあとがあるが、それでもない。不思議なポイントがありそれが気になっている。なにが不思議なポイントかというと、写真のようにちょっと平坦な地があると思えないでもないポイントがある。山の中で棚田のように平坦になっている場所があるのは、いろんな理由がありえようから、とりだててそれだけで不思議というわけではないが、不思議なのはその棚田のように平坦になっているところに、河原の石がちらほらあることだ。金華山は古いチャートの岩盤でできていて、ボロボロと角のある礫ばかりであるのだが、山の中に角の丸い明らかに河原の石があるのだ。

 私はそれは曲輪(くるわ)といわれる”防御陣地・建造物を建てる敷地・兵の駐屯施設として、城郭の最重要施設”ではないだろうかとにらんでいる。曲輪は江戸時代になると丸といわれるようになったらしいが・・・。つまり、本丸、二の丸、三の丸というような城郭の重要拠点。防衛の要。ちょっとがけ下を見るとさらに棚田上の3・4人が駐屯できるような平らなところがある・・・。こんど教育委員会に聞いてみようと思う。

土器1 ところで、今日は岐阜では雪が降った。こんな雪の日に金華山に登っている人もいまいとおもったが、一人だけすれ違った。まぁしかし、人が少ないことは事実だ。だから、いつもの土器発見現場で入念に地面を見ることができる。よく探したら、またまた発見!

土器2 前回拾った土器の片割れかも・・・。

金華山の土器 続編5

 朝、岐阜市教育委員会の方と“ロープウェイ”乗り場で待ち合わせをして”土器片と瓦片“を拾ったところを案内してきた。

 どうやら、金華山山頂付近での瓦の発見はほとんどないらしい!理由は大きく分けて2つといったところか。一つは、当時の建物で瓦が使われているようなものは少なく“木”で屋根を葺いていたと思われ、瓦が葺かれる建物はごく少なく、出土が少ない。もう一つは、金華山山頂でこれまで発掘調査が行われたことはないために、出土もない。
 山頂での瓦の発見は、かつて一度だけ山頂で盗掘されたときがあり、そのときに盗掘現場に置き去りにされた土砂から見つかったときくらいらしく、今回の瓦の発見は珍しいとのこと。そして、歴史ロマンに酔ってしまうのは、瓦の色が白かったので「当時の瓦は白かったのか」と思いたずねてみたら、実はあの瓦、焼けたため変色したとのこと。つまり、落城した際の遺品という訳。戦国時代の瓦で岐阜城が燃えたなんていえば、斉藤VS信長の稲葉山城落城、関が原の戦い後の岐阜城落城の二回。そのどちらかだろうから、年月日を特定できる!なんとわくわくすることだ。

 しかも、しかも瓦の発見がレアだという金華山山頂で怪しい瓦片3片をつづけて見つけてしまった!!!一つは現代の瓦と思われる大きな破片、一つは黒色で戦国時代といわれた瓦よりも薄いどちらかといえば現代の瓦のような均一な瓦。そしてもう一つは黒色で拾った戦国時代の瓦のような丸みと厚みをもった瓦。いやー、いずれにしてもすぐに目に付いた。
 確か明治時代に再建された岐阜城が昭和に入ってから燃えているから、そのときの瓦片か?・・・とおもいインターネットで今調べてみたら、当時再建された岐阜城は“トタン”葺だそうだ・・・。となると・・・。もしかしたら重要な発見なのか?

 さらに驚いたことは、発見現場からロープウェイに至る金華山の銀座通り。一日100人が通行し(ロープウェイ客も含み)、365日、40年間で仮に考えてみると延べ150万人の人が通っているその銀座通りの道脇で、またまた焼け落ちたと思われる色をした瓦片を発見!

 ちなみに、ときどき拾ったものを持ってくる人がいるらしいが、今回の私のように拾った場所を特定することができる資料(私は拾ったときにデジカメをもっていたので、場所を再現できる情報を記録することに努めた)を持ってくることはほとんどないらしい。今回の私の発見が、何かのお役に立てると最高にうれしいのだが。

 そんな私のときめきを考古学が好きな(というか専門にしている)知人に自慢げにメールを打ったら、彼からうらやましいという返答とともに、彼は愛知県の豊田での発掘を手伝っており、そこでもわりと「すり鉢片」がでてくると情報を貰った。現代ですり鉢を使うのは、とろろ芋、ゴマすりくらいで毎日のものでもない。けれど、すり鉢がなぜそんなに当時(豊田も戦国時代の遺跡らしい)でてくるのだろう。魚をすり身にすることが多かったのか(骨ごとだったりして)?雑穀なんかを粉にして水団や麺にしていたのか(石臼の代わりに)?消化のわるい硬い実のものを良く食べていたのか?どうしてすり鉢がそんなに多く出土するのだろう。現代の考えでいけば、茶碗と箸という食事風景だが、実は当時は食糧事情などからすり鉢に食材をいれ自分ですりつぶしながらものを食べていたとか・・・。もしくは、椿の油を搾り出すためにすり鉢で実をつぶしていたとか(この場合工業的だから一箇所からどっとでるのだろうけれど)・・・。うーん、なんとも興味は尽きない!!!

 戦国時代の人々よ楽しいひと時をありがとう。

 ちなみに、手紙は受け取ってもらえました。

金華山の土器 続編4

あした教育委員会の方と会う。ちょっとこんな手紙を保管してもらえないか聞いてみようと思う。
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このすり鉢片と接合するすり鉢片を拾った方へ

 手紙の宛名のあなたは一体、西暦何年にこの手紙を読まれることでしょうか。私は西暦2007年12月31日金華山登山中、このすり鉢片を見つけました。そのときの喜び様は過去のインターネットのhttp://blog.livedoor.jp/takejima/(当時)に埋もれていることでしょう。

 2008年1月半ばに、こんなニュースがありました。小学校の何周年記念行事で風船に手紙をつけて空に放った小学一年生の手紙が、海の底からカレイに引っ付いて見つかり、カレイを収穫した漁師と当時小学生だった、その手紙を書いた現在大学生の女性とが対面したというものです。私は時代を超えて繋がったこの話に、なにかときめき、今こうしてこの手紙を書いています。おそらく私が存命中にこの手紙が読まれることはないでしょう。けれど、時代を超えて、あなたと私の気持ちが共鳴できればと思います。

 さて、私が生まれ育った家の近くには貝塚がありました(愛知県西尾市八王子貝塚)。小学生の高学年で縄文時代に興味を持ち、今となっては問題行為なのですが、友達と自転車で八王子貝塚に乗り付け、せっせと貝塚をほじって、縄文のカケラを探したものでした。友人の中には“ヤジリ”を発見したものもいました。ですが、私達の収穫でいまでも覚えているのは、完品のやじり一点、数点のヤジリの一部、あとは土器でした。そんなことで、今から思えば、子供の頃、興味をもって貝や土や石の中から土器片を見つける訓練をしていたおかげでしょうか(中学生になって西尾市の教育委員会が八王子貝塚を発掘していることを知り、社会の先生に口ぞえしてもらいボランティアで発掘を手伝った)、今回、何気なく目をやった地面からすり鉢片が、あたかも、そこだけ目立つように色がついて見えるかのように見え、すぐにわかりました。すり鉢が使われていた時代はわかりませんが、ちょうどその上に金名水の井戸もあることですから、きっと岐阜城が加納城に移築される前、金華山山頂で着物姿の人々が往来していた時代のすり鉢ではないだろうかと思いました。そして、今回のすり鉢に触れたのは、すり鉢にとっては400年ぶりの人です。それが、登山靴をはきトレッキングパンツと登山シャツを着た私なんだと思ったら、なんだか楽しくなってきました。

 私は、2007年10月下旬から11月下旬、仕事でヒマラヤに行き、地球温暖化による氷河湖の調査に行ってまいりました。この仕事のため、体を整える目的で、2007年夏は、朝仕事に出かける前に家(湊町)と金華山を往復し、山登りに体を慣らす訓練をしていました。その後は、筋力をつけるため、また学校が始まり朝早く出かけることが難しくなため(私は美濃市で教員をしています)、仕事から帰った夜、丸太を背負い金華山を無灯火で登り、ヒマラヤのためのトレーニングをしていました。2008年の春にも私が参加した隊(慶応大学イムジャ湖調査:文部科学省 学術フロンティア デジタルアジアプロジェクト)が再度ヒマラヤ入りするというので、それに備え、職場の了解がとれれば参加できるよう冬休みも毎日金華山に登っていました。今回のすり鉢はそんなある日の発見です。

 私は、比較的日本の歴史に興味があります。また織田信長に大変興味をもっています。ですから、今回のすり鉢も記念に自分が保管することも考えました。しかし、そのような記念品もそれは私にとっての記念品であって、私の子孫がそれを大事に扱う保障もありません。それではせっかく400年のタスキを受け継いだ私が、駅伝を途中リタイアするようで、とても残念です。せっかく400年ぶりのタスキを受け取ったのです、私はそのタスキを確実に次の世代に、何百年でもかまいません、手渡し、地球と歴史を共有してきた日本人としての責務を果たしたいのです。そこで、自分で保管せず公のところに届けることを選びました。その甲斐があり、こうしてあなたにタスキを渡せてとても安心しました。(子供の頃貝塚でひろった土器片は結局、こどものころの私のおもちゃ箱にある時期まではありましたが、そのご散逸し、私は歴史遺産をなくしてしまい、後悔の念にさいなまれています。今回はそんな思いはしたくないと思います)

 改めましてこんにちは。

 あなたも私と同じように自分で保管することを選択せず、公の機関に届けられたのですね。いつになることかわかりませんが、善意の人々が手にした歴史遺産をこうして時代時代に拾っては届け、やがて一つのすり鉢が完成し、全貌を明らかにする日がくるのを私は気長に待つことにいたします。

 さて、あなたの時代、この岐阜はどんなふうに変わっているのでしょうか。信長がいまの時代を想像できないように、私もあなたの時代を想像できません。でも、考えるだけでも楽しくなります。どうぞこれからも元気で楽しい毎日をお過ごしください。

新 金華山の土器 

 今朝も朝から職場に出かけ日が暮れるまで外で測量。教育というのはなかなか難しい、十人十色の対応を日々追及しながら実践しないといけない。ムムムム・・・。

 そろそろ水泳をしたいのだけれど、こんな毎日なので空いている時間といえば、夜しかない。しかたない。今日も夜登山だっ!テーマは新コース開拓。
 金華山を越えて家とは反対側に下り、先日はドライブコースを走ったが、夜中にそんなとこを走っていたら車に轢かれるので、今日は金華山をぐるりと回る大通りを走ることにする。距離は未知数。往復2時間かかるかもしれないことを覚悟して出る。

 しかし、いつも馬の背登山道を夜下りていると、どうしても想像してしまうことがある。いまから400年前に自分が生まれ、もしも斉藤の侍として岐阜城で織田方の軍勢と激突し、負け、岐阜城を落ちていくときの恐怖。それを想像してしまう。もちろん、落ちるのは夜になるだろう。そんな暗闇の中、人知れず山を下りていたら、甲冑を身につけ、刀を抜いた織田の侍と鉢合わせしたら、俺ならどうするか・・・。挑むか、土下座して見逃しえもらうか、逃げるか?そんなことをいつも思う。(戦争映画を見ていてもよく、自分ならどうするだろう?と考えてしまう)。

 さて、そんなことを考えながら今日も馬の背を登った。そして、下り。家の反対側に下りる道。初めての夜道・・・。

 大発見!!!岩戸公園に下りるこの道は、やたらと背中が寒かった。気味が悪かった。なぜだろう。下り終わってから大通りをジョギングしてかえっているとき考えて、思いあたることがあった。理由は馬の背は山の尾根道だが岩戸公園へ抜ける登山道は谷途中から谷道だということだ。馬の背は登山中、右も左も空が見える。しかし、岩戸公園への下り道。途中から谷になり、大きな樹が茂り、右や左は林。その林に何が隠れているのかわからない・・・。
 なるほど、もし僕が岐阜城の主だとしたら、敵が夜に侵入しにくいように岐阜城への登城道は谷沿いにつくり、伏兵を置くようにするかなぁ・・・。そんなことを更に妄想した。

 話し変わって、先日土器を2つ拾ったといったが、先週の岩戸公園への登山道でも、実はもう1つ土器片を拾っていた。しかし、おそらく現代の植木鉢のカケラだと思う。不法投棄された産業廃棄物の残骸のような・・・。拾ったときは、そのまま持ち帰ろうと思ったのだが、先週は未知のドライブコースを走るので、見つけた土器片にあまり価値を見出さなかった結果、道脇に捨ててきた。しかし、火曜日に岐阜市の教育委員会と金華山で待ち合わせをする。だから、捨てた土器を探してみた。すぐ見つかった。さて、この焼き物片、いったいなんだろう。

 ちなみに、家から山頂(9;29-10.57)、山頂から岩戸公園(9:57-10:10)岩戸公園から徹明町・柳ガ瀬経由家(10:10-10:50)。なんだ、もっとかかるかと思ったが、岩戸公園と家は8キロくらいしかないのかぁ・・・。もっといいトレーニングコースを見つけなければ。

金華山の土器 続編3

 今日、職場に電話がかかってきた。電話は岐阜市教育委員会からだった。先日あづけた土器片・瓦片についてだった。
 なんでも教育委員会は瓦を発見した場所に行ったらしい。しかし、分らなかったと・・・。それで私に場所の確認の電話があったわけだ。

 火曜日の朝、私が現地を案内することにした(というか積極的にさせてくださいといったのだが・・・)。

 なぜ、瓦が・・・と思って、聞いてみたら、土器よりも瓦の場所は大事で・・・というようなことだった。確かに、稲葉山城落城、岐阜城移設時の瓦なら、それは天守閣の位置と密接なつながりがある。当時考えられないところから瓦が出てこれば、これまでの天守閣等の位置の定説が塗り換わることだってある。そいうことかぁ~。だから瓦を拾った場所が知りたいということか。

 確かに、土器片よりも瓦片のほうが興味をそそるわけなんだなぁ。さて、どうなるか。岐阜城の歴史を塗り替える一石を投じるこいとになるのか?!今後の展開が楽しみだ。

金華山の土器 続編2

0c11f587.jpg 正月に拾った2つの土器片。明らかにすり鉢のものと見られるのもは、電話鑑定では「安土桃山時代」のものとのこと。もう1つのは、昭和に入ってから土管として埋められていたもののカケラだろうとおもって聞くこともなかった。

 さて、今日、野暮用があって午前仕事を休み、野暮用を済ます前に、近所の「信長居城発掘調査所(岐阜市教育委員会)」に行ってきた。そして鑑定結果がでた。

 すり鉢のものは、土器片が小さすぎて時代の特徴を表す部分が不明なため、年代は分らず。しかし、古いものだろうとのこと。

 一方、土管片と私が考えたのは、発掘調査をしていた人(おそらく学芸員)は、これを見るなり「あっ、これは戦国時代の瓦に間違いないですね」と。学芸員の人は、すり鉢よりもこちらに価値を見出していたようだった。

 この調査所は9:00から開所しているが、私は8時半くらいにそこをたずねた。開所前にもかかわらず、対応してくださり、しかもご丁寧に絵などをかいて説明してくれた。そして一通り説明を聞き終わった後、学芸員(?)の方は「じゃぁ、さよなら」という感じだった。つまり、私はそう鑑定しましたのでどうぞお持ち帰りくださいと・・・。
 これにはびっくりした。価値があるかないかはともかく、歴史遺産。こんな、私のようなオッサンが持っていてはもったいない。しかも、場所は金華山(国有林)。土地は国のものだ。そこに落ちている土器を私が拾って、それが私のものになって言い訳がない。だから、土器片は調査所に預けてきた。

 しかし、学芸員の対応からすると、このような自分の趣味と興味のために、職業で発掘している人のところに聞きに来て、つまり仕事の邪魔をして、無料で鑑定してもらって、再び持ち帰る輩が多いのだろう。なんとケシカラン!貴重な歴史遺産は未来の世代のために、何であろうと散在してはイカン!私はそう思う。