Introduction
大学1年生のとき、浪人してまで大学に入ったものの
大学というところがイメージしていたものとかなり異なり戸惑った。
そんな呆然としていた大学1年生の春、
なぜか、これまで興味がなかったが
『植村直己物語』という映画がテレビをとおして記憶にとどまり
そしてたまたま街を歩いていたら、それが上映中であった。

田舎育ちの私はこれまで見たことある映画といえば
高校1年生の11月3日に、当時自分がとりこになっていたカンフーの
『少林寺』と、浪人したての春にみた『ネバーエンディングストーリ』くらい。

そしてそんな私が選んだ人生3本目の映画が『植村直己物語』。
正直、ビックリした。感嘆!尊敬!そして
彼が求めて止まなかった世界を垣間見たくなった。

ところが、寒がりの私は冬山登山する勇気もない。
そこで、根性さえ誰でもできることで彼が見ていた世界を垣間見ようと思った。

大学1年生のとき
●愛知県西尾市〜新潟県糸魚川まで徒歩であるく。
(コンロ・テント・寝袋で7キロの荷物)

300キロを一週間で歩き、当時57キロだった体重が5キロへった。
いままで行ったことのない土地にいっった。
いままでみたこともな景色
いままで見たこともない人々の生活
に確かに触れたと実感した。

この旅で一番印象的だったことは
一日歩いても数台の車が通るだけの峠道の道脇に、空き缶が転がっていたこと。
「空き缶を捨てる」という概念がこれまでの自分の人生になかった。だからおどろいた。
道端にごみを捨てるなんてことをどうしてする人がいるのだろう。

植村直己が見ていた世界のミニミニ版が
今の自分には面白い!と思い、大学生活の照準が定まった気がした。


大学1年生の春休み
●沖縄本島一周あるいた。
(コンロ・テント・寝袋その他で12キロの荷物)

これも300キロの行程。これには10日かかった。
一日目の晩は、海岸でバナナとオリオンビールが夕食だったのをいまでも思い出す・・・。
2日目、坂道を走って下って膝をいためた。メチャメチャいたかった。
(今でも時々夢にでる。ひざが痛くて進めない・・・という夢が始まったのはこのときだ。)

しかも、靴が合わずにマメが、親指、小指、親指の下などにできた。
つぶしたら、痛かった。海で洗ったら星の砂が皮の下に入ったようで
あるくと痛く血がでてきた・・・。


この旅を通して学んだことがある。

足が痛くて毎日、30分歩いて、もう今日の行動は中止しようと思った。毎日、朝はそれから始まる。
けれど、「さっき一歩だせたから、あと一歩だしてみよう。それから今日を終わりにしても大丈夫十分時間はある」
それを繰り返していたら
「もうだめだ!」と1キロでやめようと思っても40キロ歩き続けられることを知った。
そこで、自分の人生の格言ができあがる。
「人間その気になったら生身のからだで空を飛ぶことと、死んだ人を生き返らすこと以外なんでもできる!」

またこの種の旅の面白さを知った。
普段の生活は、毎日ベルトコンベアのように決まったすることをするだけ。
誰かが、自分の生活をコントロールしているような・・・。
けれど、旅にでると、それは違った。
自分の生活は、自分で全てを決められた。
自分で決めたことは実行すれば前進し、
自分がひよれば、一日は進まない。

私は、これまで気づかなかったが
「あーーー、これが活きている実感なのか」
と思った。これからも生きている実感を感じる生活をしていこう。

さて、沖縄の春は毎朝、雷を伴ったすさまじい雨が降っていた。
ヤンバル地方を歩いていたら、沖縄の青い海に
赤土でまっかになった川が流れ込んでいたことに驚いた。

このころから自然保護ということに興味を持つ。

そういえば、高江小中学校の体育館軒下で雨宿りをしていたら
卒業式の予行演習を終えた少年がやってきた。
「お兄さん、いまから給食だけど、一緒に食べない?先生もおいでっていってたよ」
「あー、ありがとう。じゃぁ、カメラとかテントとか乾かしているから、それをリックにしまってから行くよ」
「お兄さん、このあたりには、そんなものをとる人はいないからそのままでいいんだよ」
といって少年は笑っていた。
私はこころ洗われた。
確か、麦ご飯とコロッケだったように思う。
食べ終わると、弁当までつくって私に持たせてくれた。

あれから20年近くたつが、高江小中学校のことをときどき思い出す。

大学2年生の夏
●愛知県西尾市から仙台まで晴れの日歩き、雨の日電車(15日間)。フェリーで苫小牧に入り
襟裳岬→帯広→知床(30日間)。歩いた距離はたぶん500キロくらい。

高校三年生のとき
勉強ができなくても、雰囲気として、受験勉強しているようなフリをしないといけないとおもった。
ところが、10時を過ぎると眠くなる。そこで、なんとか夜遅くまで起きていることはないものかと考えた。
そこで思いついたのは、日本のロードマップを注意深く探り、この日本に「竹島」という地名がいくつあるのかを
探すことで眠気を覚まそうとおもった。おかげで10個以上の竹島を発見した。特に瀬戸内・九州にわりとあった。

そんな中、知床半島の不思議を感じていた。

あれだけ長距離人跡未踏の半島はない!
しかも、当時、知床原生林伐採というのが一つの大きな話題となっていたから
自然保護に興味を持っていた私である、ぜひとも知床に行きたい!

そこで、北海道まで歩いていくことにした。目的は知床半島徒歩一周である。

実はもうひとつの密かな目的もあった。

高校のころから気になっていた湖。
サロマ湖である。大きな湖だが、海に面していて、湖が”切れている”。つまり湖が海とつながっている。しかも、ちょっとだけ湖が海と接しているのだ。
面白い!
授業は難しくてさっぱり判らないので科目に関係なく地図帳を取り出し、ぼんやりと地図を眺めながら思っていた。
あの形に常々魅せられていた。
ようし、サロマ湖の砂州と砂州の間の2キロくらいを泳いで渡ろう!
これが密やかな第二の目的である。

この旅はあまりに思い出が多すぎて、いまここで書ききれないことに気づいた。
筆を改めよう。

(中略)

ともかく、ヒグマにあったりして大変だったが
私はこのたびを通して、「自然保護原理主義」にいきることにきめた。


さて、大学3年の春休みである。
●長良川をいかだで下った(郡上から河口まで150キロ 4泊5日)
当時、長良川河口堰の建設で世論は割れていた。
自然保護原理主義の私は
反対運動をしようと思った。しかし、難しい理屈は分からない。
そこで、純粋にダムや堰がないからこそできる上流から河口までの
川くだりをしようとおもった。

このたびを通して
何度も河口堰の是非を反芻していたら
反対の理由も理解できる
賛成の理由も理解できる
さて、どちらが大切か二者択一で考えると
結局、「私の気持ち」以上の答えがでないことに気づいた。
これに気づいてから
自然保護原理主義の看板を下ろすことにした。

●就職がきまっていたものの、留年してしまった。
そこで5年生のときは卒論の目処が立つまでは就職活動をしないと決めた。
しかし、夏休みも終わりのころに卒論の目処もたち、就職もきまった。
そこで、考えた。就職したらできないことを残り半年で実行しよう。
思いついたのは、家と大学との間だ45キロを自転車で通学することだ。
結局、3ヶ月くらいやった。


・・・つづく。