日食から学んだこと

日食小学校のころ、学校から帰ると屋根に上り、部分日食を観測した。それ以来、30年ぶりに日食を見た。それもこれまでの日食とは桁違いに欠ける日食だ。小学生だったころの、俺の一生の間に「ないかもしれない」と思っていた皆既日食ではないが、大掛かりな部分日食だ。
何のことはなかったが、夕立直前のときのような、薄暗さになっていたのが印象深い。

下の写真は、その日の夕暮れの写真。

印象深いのは、あれだけ注目を浴びて一大イベントを果たした太陽は、なんの疲れも見せず、その日の夕方には、日食の余韻を微塵も感じさせず、いつもと同じ太陽になっているところだ。今朝もそうだった。一夜明けた太陽は疲れを見せることなく、日常に戻っている。平常心、平常心・・・。

自分で、そう書いていて笑えてきた。太陽が日食を意識することはないし、別に太陽に感情はない。また太陽の立場に思いを馳せること自体がナンセンス。

けれども、この40過ぎのおっさんになっても、子供の頃から感じる感性が「そのまま」の状態で歳をとり続けている自分を発見したことが、もっとこの日食で印象深いことなのかもしれない。

ともかく、何があっても、平常心に心がけることを太陽から学んだ。
きっとこういった「思い込み」「考え違い」を積み重ねることで、人はそのオリジナリティーを増していくのだろう。

夕暮れ

4 thoughts on “日食から学んだこと

  1. lee

    昨日は、その時間メーカーと商談と言う名の喧嘩をしてたので、雲の合間を待ってる時間の余裕がなかったです。こんな大人になってはいけない。事務員ちゃん達は仕事そっちのけで、雲の合間を待ってて、見たらしい。奴等のが人間的で良いね。

    返信
  2. takejima

    仕事そっちのけというのも、なんだけど・・・。
    一次産業→二次産業→三次産業になるにしたがって、そこで働くひとの生きている実感は希薄化するのではないのかなぁ、と思っています。
    そんな中、一次産業的な自然現象に思いを馳せるのは健全でいいよね。
    最近は長良川の水量に一喜一憂するようにしています。

    返信
  3. lee

    やっぱり、理屈ぽいなぁ。寅さんが言うように額に汗する労働者が一番健全だし、労働の実感がある訳さぁ。と言う俺も実は理屈ぽい。元左翼青年としては、プレタリアートな感覚は抜けないね。ブルジョア批判と、反体制、高度資本主義にも疑問あるね。青臭いおっさんです。でもそんな自分が好きです。

    返信

lee へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です